私の家族(2) 父の死亡確認
翌日(3/18)の午後、K次長にも立ち会ってもらい、父の死亡確認を行うことになりました。 初めに遺体リスト(32番)を確認すると、父の氏名が入っているのです。 なぜ、名前が分かったかというと、
翌日(3/18)の午後、K次長にも立ち会ってもらい、父の死亡確認を行うことになりました。 初めに遺体リスト(32番)を確認すると、父の氏名が入っているのです。 なぜ、名前が分かったかというと、
当分の間、私の家族のことについて、お付き合いください。 私の家族は、父、母、妻(より子)、長男、長女の2世帯6人家族でした。 長男はJR貨物に就職し〇〇駅付近の社宅、長女は東京の専門学校生で、
2014/12/25 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
発電機が手に入り、組立できる製品の部材の出庫や組立作業を開始するとなると、製品物流以上のコンピュータ・システムへ処理(部材の入出庫や作業指示の完成入力)を追従させていかなければなりません。 その
2014/12/24 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
大震災以前は、関東の事業所に設置してある、コンピュータシステム(販売管理及び生産管理システム)に、工場のスタッフは必要な人員がアクセスし、不自由なく入出力操作を行っており、その通信網は専用の光ファイバ
2014/12/23 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
17日からの本格的な4トントラックでの製品出荷を開始すると、本社側との頻繁な情報通信のやりとりが必要になってきます。 それは、何の製品を何台、いつのトラックに乗せて出荷してもらいたい、という本社
2014/12/22 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
工場2階の応接室、会議室は対策本部として、煩雑な部屋に変化していきました。 白板を4つ準備し、連絡事項や指示事項、製品出荷スケジュールを見える化し、また、翌日の部材出庫、組立や出荷の協力予定者、
2014/12/21 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
これからは日付毎ではなく、分野毎に発信していきます。 3/17(木)、この日から地元の運送業者D社さん、その後に支援物資等を関東から運んで頂いたE運送さんの帰り便を活用しての、4トントラックでの
3/16(水)は、公私ともにターニングポイントになった日と前述した様に、非常に慌ただしく、精神的にも過酷な1日でしたが、そのような日に限って、憤慨する事象がありました。 工場社員がおかれている状
本来の避難場所が避難場所にはならなかった状況は、私たちの予想を遙かに超える悲惨な状況でした。 隣の行政区の避難場所(私の家族が避難した場所と高さ的には同じ位)には40~60名位避難したらしいです
家庭・生活面においても、この日はターニングポイントでした。 私にある決意をさせることになるのです。 奇跡的に助かったお隣の娘さん(私と同年代)に非難所で会い、私の家族の非難経路や津波の状況
3/16(水)の朝になりました。 この日は、いろいろな事があり、いろいろな事を行いました。 震災以降、公私ともにターニングポイントになった日と感じています。 1) 2トントラックから、大量の
14日の夕方から15日にかけて、本社から災害支援として駆けつけてくれた、Y氏の体験談を紹介します。 14日夕方・・・ 工場長、K次長、Yの3名で千厩に向かいました。 1件目の旅館は断られ、2
遺体安置所から工場に戻り、義姉連中は実家に始めに帰り、夕方近くに、K次長、Y氏の弟と一緒に、実家に向かい、情報基地のY氏の成果の確認及び迎いに行くのでした。 その日の夕方、本社からの第2弾として
市内の病院から地元の気仙沼階上に戻り、どういう結果であれ、早く発見してあげることに優先すべき、との義姉の見解もあり、この日、義姉、義妹夫妻に同行してもらい、初めて “遺体安置所” になっている階上小学
自宅付近を確認後、次に目指したのは気仙沼市内にある病院です。 国道45号線に平行する山沿いの農道を走り、無事に到着しました。 私にとって、大震災以降、女房の実家-工場-地元の避難所の行動範囲だ
翌日(15火)の朝になり、Y氏と何とか実家で合流し、実家の2階の部屋にコタツ、ストーブ等を準備してもらい、簡易情報基地を設置、私と義姉、義妹夫婦の4人は、Y氏に情報基地担当及び実家の留守番をお願いし、
2014/12/10 | 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
千厩(岩手県一関市)の宿の情報基地から、K次長と帰路に着く頃には暗くなり、実家経由にて帰るのですが、帰る道路の外灯、付近の家の照明がついているのです。 『結構、停電復旧しているな~』 って女房
2014/12/09 | 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
千厩(岩手県一関市)での買い物を終え、工場に戻ると、既に、海外工場出向組、気仙沼出身組が2台の車で無事に宮城工場に到着していました。 その時点で海外工場責任者Eさんのお父さんの死亡が確認できたと
2014/12/08 | 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
千厩町(一関市)の郊外の大手スーパーやホームセンターに開店待ちで並んでいる状況を無視し、私達は、どの街でもシャッター通りとして問題になっている、旧市街地を目指しました。 実は私は千厩には縁があり
2014/12/07 | 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
14日の朝(月)になりました。 K次長と “借用した燃費のよい軽自動車” にて工場を出て、実家に寄ってから千厩町(一関市)を目指しました。 会社から女房の実家まで約20km強、更に千厩まで
元旦に発生した能登半島地震の被災者のために、震災を体験し、被災者(自宅
元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に、東日本大震災時の状
元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に心が痛みますが、13
東日本大震災から13年が経とうとしています。 震災から5年後には
東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が