3/17~31の活動(3) 情報通信
2014/12/23 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
17日からの本格的な4トントラックでの製品出荷を開始すると、本社側との頻繁な情報通信のやりとりが必要になってきます。 それは、何の製品を何台、いつのトラックに乗せて出荷してもらいたい、という本社
2014/12/23 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
17日からの本格的な4トントラックでの製品出荷を開始すると、本社側との頻繁な情報通信のやりとりが必要になってきます。 それは、何の製品を何台、いつのトラックに乗せて出荷してもらいたい、という本社
2014/12/22 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
工場2階の応接室、会議室は対策本部として、煩雑な部屋に変化していきました。 白板を4つ準備し、連絡事項や指示事項、製品出荷スケジュールを見える化し、また、翌日の部材出庫、組立や出荷の協力予定者、
2014/12/21 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
これからは日付毎ではなく、分野毎に発信していきます。 3/17(木)、この日から地元の運送業者D社さん、その後に支援物資等を関東から運んで頂いたE運送さんの帰り便を活用しての、4トントラックでの
3/16(水)は、公私ともにターニングポイントになった日と前述した様に、非常に慌ただしく、精神的にも過酷な1日でしたが、そのような日に限って、憤慨する事象がありました。 工場社員がおかれている状
本来の避難場所が避難場所にはならなかった状況は、私たちの予想を遙かに超える悲惨な状況でした。 隣の行政区の避難場所(私の家族が避難した場所と高さ的には同じ位)には40~60名位避難したらしいです
家庭・生活面においても、この日はターニングポイントでした。 私にある決意をさせることになるのです。 奇跡的に助かったお隣の娘さん(私と同年代)に非難所で会い、私の家族の非難経路や津波の状況
3/16(水)の朝になりました。 この日は、いろいろな事があり、いろいろな事を行いました。 震災以降、公私ともにターニングポイントになった日と感じています。 1) 2トントラックから、大量の
14日の夕方から15日にかけて、本社から災害支援として駆けつけてくれた、Y氏の体験談を紹介します。 14日夕方・・・ 工場長、K次長、Yの3名で千厩に向かいました。 1件目の旅館は断られ、2
遺体安置所から工場に戻り、義姉連中は実家に始めに帰り、夕方近くに、K次長、Y氏の弟と一緒に、実家に向かい、情報基地のY氏の成果の確認及び迎いに行くのでした。 その日の夕方、本社からの第2弾として
市内の病院から地元の気仙沼階上に戻り、どういう結果であれ、早く発見してあげることに優先すべき、との義姉の見解もあり、この日、義姉、義妹夫妻に同行してもらい、初めて “遺体安置所” になっている階上小学
自宅付近を確認後、次に目指したのは気仙沼市内にある病院です。 国道45号線に平行する山沿いの農道を走り、無事に到着しました。 私にとって、大震災以降、女房の実家-工場-地元の避難所の行動範囲だ
翌日(15火)の朝になり、Y氏と何とか実家で合流し、実家の2階の部屋にコタツ、ストーブ等を準備してもらい、簡易情報基地を設置、私と義姉、義妹夫婦の4人は、Y氏に情報基地担当及び実家の留守番をお願いし、
2014/12/10 | 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
千厩(岩手県一関市)の宿の情報基地から、K次長と帰路に着く頃には暗くなり、実家経由にて帰るのですが、帰る道路の外灯、付近の家の照明がついているのです。 『結構、停電復旧しているな~』 って女房
2014/12/09 | 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
千厩(岩手県一関市)での買い物を終え、工場に戻ると、既に、海外工場出向組、気仙沼出身組が2台の車で無事に宮城工場に到着していました。 その時点で海外工場責任者Eさんのお父さんの死亡が確認できたと
2014/12/08 | 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
千厩町(一関市)の郊外の大手スーパーやホームセンターに開店待ちで並んでいる状況を無視し、私達は、どの街でもシャッター通りとして問題になっている、旧市街地を目指しました。 実は私は千厩には縁があり
2014/12/07 | 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
14日の朝(月)になりました。 K次長と “借用した燃費のよい軽自動車” にて工場を出て、実家に寄ってから千厩町(一関市)を目指しました。 会社から女房の実家まで約20km強、更に千厩まで
2014/12/06 | 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
ガソリンが手に入らない状況で、いかに連絡ができるところまで移動し、本社や親戚に連絡をつけるか!? を考えていましたが、 工場に戻って目についたのが駐車場にあるTさんの軽自動車でした。 (震災
2014/12/05 | 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
大震災から3日目(日曜日)の朝になりました。 翌朝には実家でアンテナが立っていた唯一の庭先の場所は圏外に変化していました。 義姉が、おにぎり等の差入れを持たせてくれて工場に戻りました。
常務への連絡終了後は、仕事モードから家庭モードへの切替です。 子供たち、妹たちからのメールを受信していたので、滅多にしたことがない携帯でのメール入力、それでなくても入力が遅いのに、更に充電切れの
工場に戻る際、山道のルートを変え、○○小学校付近の伯母(父の妹)の家に立ち寄りました。 伯母の家はギリギリで津波の被害を免れてあり、簡潔に家族が見つからない旨を話し、暖かい飲み物をご馳走になって
東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が
東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が
東日本大震災から10年経過しようとしています。 これまでブログの
やっと観光地の復旧・復興へ 未曾有の災害からの復
東日本大震災から7年が経過しました。 その経過の中で一番感じるこ