生産再開へ(2) 本社出張
今になると、翌日(4/1)、どのようなルートでビジネスホテルから本社まで行ったのか記憶が曖昧ですが、無事に本社につきました。 電動シェーバー派の私はカミソリでのひげ剃りは苦手で、震災以降、その行為を
今になると、翌日(4/1)、どのようなルートでビジネスホテルから本社まで行ったのか記憶が曖昧ですが、無事に本社につきました。 電動シェーバー派の私はカミソリでのひげ剃りは苦手で、震災以降、その行為を
3/末になると、会社としても年度末対応の結果として上半期が終わり、4月からの下半期を向かえる時期です。 電気、水(沢水での工業用水)、情報ネットワークの為の仮事務所の増設によるネットワークの応急
“他の人だけでなく被災者も考えつかない、でも被災者には必要なもの” “提供するタイミングで支援してもらいたい物資が変わる” 今回、本社から衛星携帯電話が3/26に届きました。 工場では
これまでは、ボランティア的な支援物資に関して考察してきましたが、工場再開、災害復旧のために必要不可欠な経費的物資についても、触れたいと思います。 3/14の朝には、海外出向組と本社組(工場出身者
支援物資を何にするか?を考える場合、 “衣食住”に分けられる。 “他の人だけでなく被災者も考えつかない、でも被災者には必要なもの” “提供するタイミングで支援してもらいたい物資が変わ
支援物資を何にするか?を考える場合、“衣食住”に分けられる。 提供受けた側の経験談として、 “衣→食→住” の感じの優先、提供だった様な感覚を持ちます。 私が支援物資を提供する側で考えるべ
今回の大震災の被災者は、社内だけでなく、国内、国外等から沢山の支援を頂き、本当に言葉では表すことが出来ない程の、感謝、感動、人のありがたみを実感しています。 私は、これまで災害支援などには、無頓
3月19日の朝に、それまでの支援物資の量とは比較にもならない、沢山の支援物資を、日本全国のみならず、中国の販社・工場からも、無事に受け取ることが出来ました。 まずは、量の多さにビックリしたと共に
M氏家族には愛犬 “R” がいて、一緒に避難生活をしていましたが、あまり他人にはなつかないらしい “R” が、犬好きの私に馴染むまでに時間はかからず、 “お手” を要求すると、仕方なさそうな顔で従い、
4/15(金)に最後になった母の火葬が終わり、葬儀屋さんに3人の遺骨が仮安置して頂いた頃、工場はマイクロバス・乗り合い乗用車を活用した通勤(勤務時間9時~16時)での生産体制にこぎ着けていました。
死亡確認した当日(4/3)に市役所に死亡届を提出し、4/15に女房と同じ千厩での火葬と決まりました。 その間、学校の始業の関係と思いますが、遺体安置所を小学校の体育館から、遠く離れれた山間のゲー
最後に発見された母の時まで、何体の遺体の顔写真をみたことか・・・。 きれいなままの顔もあれば、損傷が激しい顔の写真もありました。 遺体リストの中には焼死体状態で男女判別も不明、顔写真に出来ない
父の死亡届で経験していますので、女房の時はスムーズでした。 この時にはスクーターが届いており、ガソリンが貴重な時期に有効活用させて頂きました。 (但し、市役所-工場間の活用は非常に寒かったです
以前に、女房の死亡確認において、情けない失態をさらすことになることに触れましたが、恥を忍んで発信します。 息子と合流し、父の火葬(3/22)の前ですから、3/19か20頃だったと思います。 父
翌日(3/19)は土曜日ですが、約20名の社員のご協力にて製品出荷を行った日です。 私の方は、父の弟妹を中心に死亡確認及び火葬日程を連絡したり、葬儀屋さんに出向き、火葬の段取り(霊柩車の手配等)
K次長と気仙沼市役所に到着した時は、既に暗くなってきて、当時、市役所も停電状態で、発電機による電気供給につき、薄暗い状態での事務手続きだった記憶があります。 順番待ちにて手続きを行ったのですが、
翌日(3/18)の午後、K次長にも立ち会ってもらい、父の死亡確認を行うことになりました。 初めに遺体リスト(32番)を確認すると、父の氏名が入っているのです。 なぜ、名前が分かったかというと、
当分の間、私の家族のことについて、お付き合いください。 私の家族は、父、母、妻(より子)、長男、長女の2世帯6人家族でした。 長男はJR貨物に就職し〇〇駅付近の社宅、長女は東京の専門学校生で、
2014/12/25 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
発電機が手に入り、組立できる製品の部材の出庫や組立作業を開始するとなると、製品物流以上のコンピュータ・システムへ処理(部材の入出庫や作業指示の完成入力)を追従させていかなければなりません。 その
2014/12/24 | 3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
大震災以前は、関東の事業所に設置してある、コンピュータシステム(販売管理及び生産管理システム)に、工場のスタッフは必要な人員がアクセスし、不自由なく入出力操作を行っており、その通信網は専用の光ファイバ
東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が
東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が
東日本大震災から10年経過しようとしています。 これまでブログの
やっと観光地の復旧・復興へ 未曾有の災害からの復
東日本大震災から7年が経過しました。 その経過の中で一番感じるこ