私の家族(9) 葬儀
4/15(金)に最後になった母の火葬が終わり、葬儀屋さんに3人の遺骨が仮安置して頂いた頃、工場はマイクロバス・乗り合い乗用車を活用した通勤(勤務時間9時~16時)での生産体制にこぎ着けていました。
翌週の4/18(月)からは、通常勤務時間での生産体制の見通しが立った時期と重なりますが、その当時は、公私ともにぽっかり穴が開いた様な感じで、私の気力も体力も限界に近い時期でした。
本来であれば、直ぐにでも葬儀を行い、一区切りをつけるべきでしたが、菩提寺が相変わらず復旧見通しがなく、葬儀参列者の駐車場自体もない状況や、遺骨が仮安置の状況からは、しばらく様子を見て、私自身としても、気力・体力をゆっくり回復したいとの思いに駆られていました。
ちょうど、5月の連休がそのタイミングと思い、連休にリフレッシュ(回復)してから、葬儀を行いたいと考えていました。
ところが、菩提寺が、地元の新聞に、連休前の4/28に大震災犠牲者全体を対象とした四十九日法要を行う旨の広告が載ったのです。
その前に仮安置している遺骨も全て、菩提寺に移動して行うとのこと。
私の家では奇跡的に3人全員が発見できたことから、個人的な葬儀を行うつもりでいて、その旨を和尚さんに話ししたら、
それでは、四十九日法要の前に行ってもらいたい!となり、
エー!となり、
慌てて、その前日(4/27)に行うことにし、葬儀屋さんや親戚・親類、会社への連絡とかの準備に追われ、リフレッシュどころの話ではなかったのです。
通常であれば地元の新聞広告に葬儀日程を知らせるのですが、当時は、周りに被災者が沢山いる状況や、駐車場がない状況からは、知らせをせず、身内のみで葬儀を行い、事後に地元新聞広告に掲載する方法しかとれませんでした。
本来であれば、3人それぞれにお世話になった方々に周知してもらい、多くの方々に見守られて葬儀を行いたかったのですが、当時、大震災の爪痕はそれすら出来なかったのです。
それでも、当日4/27日は、参列することが出来た親戚・親類、ご近所、海外工場責任者のEさんやD社の社長まで駆けつけて頂き、予想以上の方々に見守られて葬儀を行うことが出来ました。
会社、社員からも沢山のご香典を頂きました。
最後だからと、なんと、娘、妹(次女)、姪(長女の子供)、姪(義姉の子供=病院の看護婦さん)の4人もが、それぞれの立場で“お別れのことば”をかけてもらいましたが、喪主にとっては、非常に辛いパフォーマンスでした。
最後の喪主の挨拶では、涙を見せることなく、気丈に振る舞うつもりでしたが無理でした。
(会葬御礼の概略)
両親を介して育ててもらった海は、両親だけでなく、大切な妻をも奪い、残された家族には大きな試練を残しました。
未だに事実を受け入れることができませんが、これからは、故人があの世から私たち家族を見守ってくれていると信じ、海が見えるこの地元に背を向けることなく、この試練を乗り越え、故人の分まで頑張っていきたいと思っております。
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