さいごに(3) 最終回、退職のご挨拶
とうとう最終回になりました。
3.5ヶ月もの間、お付き合い頂きありがとうございました。
大変恐縮ですが、私こと
このたび、11月10日付をもって退職させていただくことになりました。
引継ぎ等により、時々工場には顔を出しますが、基本的には休暇を頂き、第2の人生の準備体勢に入っていきますのでご理解お願い致します。
一般的には “一身上の都合により” となるところですが、退社理由は色々ある中で、一番大きな理由は、
工場マネジメント と、
地元での生活再建、復旧・復興
という大きな課題を私1人で、2足のわらじを履いていくことは、私のスキル・精神状態からは困難との結論にいたり、その結果、会社を引退(退職)することにしました。
入社して26年、まさか、このような形で引退するとは、夢にも思いませんでした。
震災以降2ヶ月位までは無我夢中で、会社(工場)、社員のためにと、私の発揮できる能力の範囲で頑張ってきたつもりです。
しかし、5月頃から、順調に工場が生産再開され、私がいようといまいと、工場運営が軌道に乗ってくると、
“地元での生活再建、復旧・復興を最優先にしたい”
という考えが強まっていきました。
また、仕事の一番の理解者であった女房を失ったことも大きな要因であることは確かです。
会社の仕事しかしない、できなかった私には、これから新たな能力・技能を身に付け、残された財産を継承し、失った財産を取り戻さなければなりません。
*田んぼ、畑、農協組合員を引継ぎ、美味しい農作物を産出
*漁協組合員(漁業権)を引継ぎ、新鮮な魚介類を水揚げ
*盆正月には十数人が里帰りで集まることが出来る家を再建
会社、社員には本当にお世話になり、喜怒哀楽、色々ありましたが、私にとって貴重な体験、財産になっています。
特に、工場社員の方々には、時には強引ともハード的とも言える要求もあったと思いますが、一緒に工場運営、生産活動に協力頂き、心よりお礼申し上げます。
ありがとうございました。
これから、益々会社の発展、皆様のご健勝とご活躍をお祈り申し上げ、お礼かたがたご挨拶、最終回とさせて頂きます。
(東日本大震災 おわり)
編集後記
震災年の6月中旬から、会社の社内メールで体験談を発信してきて、この最終回を発信したのが10月7日でした。
会社はちょうど決算月(9月)が過ぎ、新たな期に入るタイミングで、既に、経営陣には退職願を提示し受理して頂いていました。
喜怒哀楽の中で、大震災で一生分味わった、怒哀を捨て、喜楽な第二の人生を歩もうとしていました。
冊子『追想』では残された家族からのメッセージも添えて製本しました。
普通で、当たり前の生活を失った辛さなど、それぞれの思いで綴っています。
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