支援物資(2) 震災直後は・・・
今回の大震災の被災者は、社内だけでなく、国内、国外等から沢山の支援を頂き、本当に言葉では表すことが出来ない程の、感謝、感動、人のありがたみを実感しています。
私は、これまで災害支援などには、無頓着だったことに、人間性に欠けている部分を痛感し、今度は、同じ様な状況が発生した場合には、被災経験者として、いろいろな形で支援実行することが、今回、支援して頂いた方々への恩返しになるものと思っています。
そのような中、あくまで被災者の立場、支援物資の受け取る立場での、心境や変化などを紹介し、記録に残すことで、私含め、これらの支援物資を提供する側になった時に参考となり、喜ばれる支援物資の提供につながればと思います。
あくまで、私個人的な考察ですので、被災者全員の統一見解ではないことだけは承知願いします。
とにかく、家を流出した被災者は全財産を失った状況です。
私の場合は、奇跡的に2階部分が、流されながらもそのまま残っていたので、多少の物品は回収しましたが、全体からすれば微々たる物です。
親戚とかに、
“何か必要な物はないか!?”
“何でも良いから遠慮なく言って!”
って何人もの人に言われても、被災直後、とにかく目先のことしか考えられず、被災者としては初めての立場なのでまとまらないのです。
何千万円もの財産を失っている状況で、当然、遠慮する気持ちもあり、それ以上に、被災直後はライフラインも寸断状態で、その時点で考えることは、
“生きられればよい”
なんです。
従って、衣料がなければ衣料(津波等で濡れていた場合など)、食料がなければ食べ物、飲み物という第一声になるのでしょうが・・。
私の場合、工場が避難場所でしたので、衣料は別に1週間同じ物を着ていたって死ぬ訳でもなく、いつか(自分の好きな物を)買いに行ければ良いし、食料は非常食はあるし、被災を免れた社員からの、ありがたい差入れもあったりし、受水槽には飲料水も沢山あり、当面は生きられる。
結果的に、親戚や妹達には、
“(今)必要な物はない、大丈夫”
という回答になってしまうのです。
ところが、親戚や妹などは身内が大変な状況になっている訳で、それでは済まないみたいで、それぞれの判断で支援物資を考え、自宅にある余剰品をかき集め、買い集め、少しでも昔の生活に早く戻ってもらいたい!
との行動に出ると察します。
身内だけでなく、同じ社員として、地元出身者として、同じ日本人として、同じ人間として、何とかしてあげたい!と、支援物資の提供になるのではないでしょうか?
その際、支援物資を何にするか?を考える場合、“衣食住”に分けられると思います。
スポンサードリンク
関連記事
-
-
私の家族(6) 女房の死亡届・火葬
父の死亡届で経験していますので、女房の時はスムーズでした。 この時にはスクーターが届いており、
-
-
3月11日の出来事(6) 避難場所での一夜
3月11日に戻ります。 暗くなり、小雪が舞うきびしい寒さ、断続的に余震が続く中、当工場の非難場
-
-
家族からのメッセージ(6) 見守っていてね
3.11 絶対に忘れることのない日です。 私が20年間生きた中でこんな悔しい思いをしたのは初
-
-
3月12日の行動(5) 実家での出来事
工場に戻る際、山道のルートを変え、○○小学校付近の伯母(父の妹)の家に立ち寄りました。 伯母の
-
-
3月14日の行動(3) 情報基地
千厩(岩手県一関市)での買い物を終え、工場に戻ると、既に、海外工場出向組、気仙沼出身組が2台の車で無
-
-
家族からのメッセージ(3) 私のこころ-1
3月の震災から1年が経とうとしています。 この1年、あっという間に過ぎて行った気がします。
-
-
生産再開へ(6) 常務が大余震を・・・
本格的に生産が再開される見通しになった4月7日、震災以降、本社経営陣として、初めて常務が工場に入りま
-
-
3月15日の行動(1) 車の発見
翌日(15火)の朝になり、Y氏と何とか実家で合流し、実家の2階の部屋にコタツ、ストーブ等を準備しても
-
-
生産再開へ(7) 体制の変化
プロジェクト・分科会の体制・メンバーは生産再開・災害復旧の内外的な変動に伴い、刻々と変化していきまし
-
-
私の家族(10) 愛犬チーズ
M氏家族には愛犬 “R” がいて、一緒に避難生活をしていましたが、あまり他人にはなつかないらしい “
スポンサードリンク
- PREV
- 支援物資(1) 感謝と感激
- NEXT
- 支援物資(3) 衣食住の衣