私の家族(3) 父の死亡届
K次長と気仙沼市役所に到着した時は、既に暗くなってきて、当時、市役所も停電状態で、発電機による電気供給につき、薄暗い状態での事務手続きだった記憶があります。
順番待ちにて手続きを行ったのですが、受付担当の方は、ほとんど感情を出さず、やさしい、ゆっくりな口調で、死亡届の記入内容を伝授していき、スムーズに手続きが進んだ印象があります。
この人達はプロだな~。
って後で思いましたが、ヘタに同情したり感情を出したりしない方が、遺族の感情を不安定にすることを防止しているのかも知れません。
(いろいろな遺族がいますから・・・)
それでも、私としては比較的冷静に対応していたと思っていたのですが、火葬の日程(予約)の手続きの際には、ちょっと感情が高ぶったことを覚えています。
やさしい、ゆっくりな口調と、私の感情が高ぶるやりとりは、
『気仙沼で火葬する場合は約1ヶ月待つことになります。』
『1ヶ月!?そんなに待っていたら・・・!!』
『一度、土葬しておいて、その後に火葬する方法もあります。』
『土葬!?掘り返して火葬!?それ以外に方法がないの?気仙沼以外の火葬場は?』
(一関市で火葬応援していた情報が事前に入っていた)
『ちょっとお持ち下さい。(その後、一関千厩や一関釣山の火葬場確認)』
『一番早いのが釣山の火葬場で3/22 14:30~、千厩が3/**になります』
3/18の時点で、1ヶ月後と3/22の火葬とでは雲泥の差の感じがしましたが、とにかくガソリンが手に入らない状況下にて、長距離移動しての火葬を諦めた人も多かったのではないかと思います。
K次長とちょっと相談し、本社で確保して頂いたガソリンを譲ってもらう前提にて、
『それでは、一関釣山の火葬場での火葬予約をお願いします。』
という結論に至りました。
気仙沼から一関釣山まで片道約60kmの移動しての火葬になります。
死亡届(火葬予約)が終わり、工場に戻ったら、息子(長男)が到着していました。
息子はJR貨物の運転手(当時は見習中)で東北本線も被災していたことから、自宅待機状態のところを、D社さんの帰りのトラックに便乗させてもらい、工場までたどり着いたのでした。
私にとって、震災以降、 “ひとりぼっち” から回避でき、残された家族と初めて合流したのですが、男同士ってものは、あっけないもので、涙することなく、
『無事に着いたな、じいちゃんの死亡届してきたから』
『わかった、疲れた~』
みたいな感じで、M氏家族に紹介し、当面、一緒に避難生活を過ごせると思ったのもつかの間、息子はその後、中学時代の同級生の家にお世話になるのでした。
その夜は私の寝ている和室に、なんとかもう1人分の布団を敷いて一緒に寝たのですが、息子も震災以降はなかなか眠れず、翌朝は朝食の準備が出ても起きて来ない状況で、久々に熟睡出来たとのこと。
息子には言わなかったのですが、実は私もその日、震災以降、初めての熟睡でした。
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