*

私の家族(3) 父の死亡届

公開日: : 最終更新日:2016/03/11 東日本大震災体験談, 私の家族

K次長と気仙沼市役所に到着した時は、既に暗くなってきて、当時、市役所も停電状態で、発電機による電気供給につき、薄暗い状態での事務手続きだった記憶があります。

順番待ちにて手続きを行ったのですが、受付担当の方は、ほとんど感情を出さず、やさしい、ゆっくりな口調で、死亡届の記入内容を伝授していき、スムーズに手続きが進んだ印象があります。
この人達はプロだな~。
って後で思いましたが、ヘタに同情したり感情を出したりしない方が、遺族の感情を不安定にすることを防止しているのかも知れません。
(いろいろな遺族がいますから・・・)

それでも、私としては比較的冷静に対応していたと思っていたのですが、火葬の日程(予約)の手続きの際には、ちょっと感情が高ぶったことを覚えています。
やさしい、ゆっくりな口調と、私の感情が高ぶるやりとりは、

『気仙沼で火葬する場合は約1ヶ月待つことになります。』

『1ヶ月!?そんなに待っていたら・・・!!』

『一度、土葬しておいて、その後に火葬する方法もあります。』

『土葬!?掘り返して火葬!?それ以外に方法がないの?気仙沼以外の火葬場は?』
(一関市で火葬応援していた情報が事前に入っていた)

『ちょっとお持ち下さい。(その後、一関千厩や一関釣山の火葬場確認)』

『一番早いのが釣山の火葬場で3/22 14:30~、千厩が3/**になります』

3/18の時点で、1ヶ月後と3/22の火葬とでは雲泥の差の感じがしましたが、とにかくガソリンが手に入らない状況下にて、長距離移動しての火葬を諦めた人も多かったのではないかと思います。

K次長とちょっと相談し、本社で確保して頂いたガソリンを譲ってもらう前提にて、

『それでは、一関釣山の火葬場での火葬予約をお願いします。』

という結論に至りました。
気仙沼から一関釣山まで片道約60kmの移動しての火葬になります。

死亡届(火葬予約)が終わり、工場に戻ったら、息子(長男)が到着していました。

息子はJR貨物の運転手(当時は見習中)で東北本線も被災していたことから、自宅待機状態のところを、D社さんの帰りのトラックに便乗させてもらい、工場までたどり着いたのでした。

私にとって、震災以降、 “ひとりぼっち” から回避でき、残された家族と初めて合流したのですが、男同士ってものは、あっけないもので、涙することなく、

『無事に着いたな、じいちゃんの死亡届してきたから』
『わかった、疲れた~』

みたいな感じで、M氏家族に紹介し、当面、一緒に避難生活を過ごせると思ったのもつかの間、息子はその後、中学時代の同級生の家にお世話になるのでした。

その夜は私の寝ている和室に、なんとかもう1人分の布団を敷いて一緒に寝たのですが、息子も震災以降はなかなか眠れず、翌朝は朝食の準備が出ても起きて来ない状況で、久々に熟睡出来たとのこと。

息子には言わなかったのですが、実は私もその日、震災以降、初めての熟睡でした。

私の家族(4) 父の火葬 につづく

スポンサードリンク

関連記事

no image

生産再開へ(7) 体制の変化

プロジェクト・分科会の体制・メンバーは生産再開・災害復旧の内外的な変動に伴い、刻々と変化していきまし

記事を読む

no image

支援物資(6) タイミングと目的

“他の人だけでなく被災者も考えつかない、でも被災者には必要なもの” “提供するタイミングで支援

記事を読む

no image

私の家族(9) 葬儀

4/15(金)に最後になった母の火葬が終わり、葬儀屋さんに3人の遺骨が仮安置して頂いた頃、工場はマイ

記事を読む

no image

支援物資(5) 初動判断

これまでは、ボランティア的な支援物資に関して考察してきましたが、工場再開、災害復旧のために必要不可欠

記事を読む

no image

3月16日の行動(3) 決意

本来の避難場所が避難場所にはならなかった状況は、私たちの予想を遙かに超える悲惨な状況でした。

記事を読む

no image

3月16日の行動(1) 製品初出荷!

3/16(水)の朝になりました。 この日は、いろいろな事があり、いろいろな事を行いました。 震災

記事を読む

no image

生産再開へ(6) 常務が大余震を・・・

本格的に生産が再開される見通しになった4月7日、震災以降、本社経営陣として、初めて常務が工場に入りま

記事を読む

no image

3月11日の出来事(3) 津波の映像と携帯不通

とにかく、連絡がつかない、状況がつかめない。 そのような中での私の行動は、駐車場から自分の車を

記事を読む

no image

家族からのメッセージ(4) 私のこころ-2

震災当時は、まだ19歳でした。 5月に20歳の誕生日を迎えた時、初めて誕生日なんていらないと思いま

記事を読む

no image

3/17~31の活動(4) システム対応

大震災以前は、関東の事業所に設置してある、コンピュータシステム(販売管理及び生産管理システム)に、工

記事を読む

スポンサードリンク

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

スポンサードリンク

no image
時間をかけてはいけない罹災証明書

元旦に発生した能登半島地震の被災者のために、震災を体験し、被災者(自宅

no image
時間が解決してくれる(再建)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に、東日本大震災時の状

no image
時間でしか解決しないことがある(避難・仮設住宅)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に心が痛みますが、13

no image
時間でしか解決しないことがある(こころ)

東日本大震災から13年が経とうとしています。 震災から5年後には

日常と節目と語り部

東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が

→もっと見る

PAGE TOP ↑