支援物資(6) タイミングと目的
“他の人だけでなく被災者も考えつかない、でも被災者には必要なもの”
“提供するタイミングで支援してもらいたい物資が変わる”
今回、本社から衛星携帯電話が3/26に届きました。
工場では要請していませんので、本社が必要と判断し手配したと思われます。
Y氏が来た頃、わざわざガソリンを費やし、情報基地として携帯で連絡取り合っていた、3/14近辺に入手できていれば、被災した工場関係者には考えもつかなかった緊急通信手段として、それは相当の効果があったと思われます。
しかし、3/26では・・・・。
既に、工場内でも携帯の電波がつながる様な状況に変化していたタイミングでの入手は、結果的に一度も使用することなく、本社に返送することになったのです。
発電機の初動判断に関連するかもしれませんが、判断が遅く提供するタイミングを失うと、不要な経費となってしまうことになります。
必要不可欠な経費的物資においては、
“物資の目的”
も提供側は注力する必要があります。
今回、工場から“テレビ”の依頼を行いました。
確か発電機とあまり違わない時期に “小型テレビ(DVD再生付)” は到着しました。
早速、見ようとセッティングしようとしたら、アンテナがないのです・・・。
テレビを依頼した目的はテレビを飾っておくことでもなく、DVDを見る訳でもありません。
“画像での震災の状況や復旧の状況を把握する為” なんです。
結果的に、発電機によって、電気が使える様になっても、テレビが見られる様になるには、更に期間がかかり、ラジオの情報でしか把握できない状況が続くのでした。
中には、さすが!っていう物資もありました。
工場からは “自転車” で依頼したと記憶しているのですが、 “工場と目的地との往復に活用” と目的を判断してもらった様で、工場に来た方は把握していると思いますが、国道から工場までは “なだらかな登りが約2km” つづき、普通のママチャリでは大変です。
それを察してもらった様で普通のママチャリ以外に、電動自転車を2台手配し送ってくれました。
私も電動自転車を初体験させて頂きましたが、工場に来るには、ママチャリとは雲泥の差です。
息子が帰って来た時、工場と地元(約10km)をママチャリで往復させましたが、行きはよいよい、帰りは大変だった様で、若さも勝てず、途中からママチャリを押して歩いてくる始末でした・・・。
スポンサードリンク
関連記事
-
-
家族からのメッセージ(8) 一番伝えたいこと
私は、毎年 お母さんの実家へ夏休みと冬休みに5日間ぐらい泊まっていました。 ですが、この東日本
-
-
生産再開へ(7) 体制の変化
プロジェクト・分科会の体制・メンバーは生産再開・災害復旧の内外的な変動に伴い、刻々と変化していきまし
-
-
3月14日の行動(4) 当たり前の生活
千厩(岩手県一関市)の宿の情報基地から、K次長と帰路に着く頃には暗くなり、実家経由にて帰るのですが、
-
-
3/17~31の活動(4) システム対応
大震災以前は、関東の事業所に設置してある、コンピュータシステム(販売管理及び生産管理システム)に、工
-
-
震災から4年になるね
じいちゃん(親父)、ばあちゃん(お袋)、ママ(女房)、そっちはどうですか? ケンカしないで、安らか
-
-
私の家族(5) 女房の死亡確認
以前に、女房の死亡確認において、情けない失態をさらすことになることに触れましたが、恥を忍んで発信しま
-
-
私の家族(2) 父の死亡確認
翌日(3/18)の午後、K次長にも立ち会ってもらい、父の死亡確認を行うことになりました。 初め
-
-
3月11日の出来事(1) 会議中の食堂で
2011年3月11日 14時46分 私はじめ工場幹部は、食堂にて、月1回の定例である“課長会議”の開
-
-
家族からのメッセージ(2) 強くなる
東日本大震災から、1年が経とうとしています。 現在、気仙沼を離れて生活しているためか、いまだに
-
-
私の家族(8) 母と次女
死亡確認した当日(4/3)に市役所に死亡届を提出し、4/15に女房と同じ千厩での火葬と決まりました。
スポンサードリンク
- PREV
- 支援物資(5) 初動判断
- NEXT
- 生産再開へ(1) 気持ちの切替