3/17~31の活動(4) システム対応
公開日:
:
最終更新日:2016/03/11
3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
大震災以前は、関東の事業所に設置してある、コンピュータシステム(販売管理及び生産管理システム)に、工場のスタッフは必要な人員がアクセスし、不自由なく入出力操作を行っており、その通信網は専用の光ファイバーケーブルにて可能にしていました。
しかし、今回の大津波により電線同様に流出・断線してしまい、復旧見通しが全然立たない状況になってしまいました。
(結果的にライフラインの中で一番最後の復旧でした・・・)
関東を拠点にして、お客様への出荷を再開するには、その製品の物流に合わせ、コンピュータシステムへの入力を行う必要がありますが、そのノウハウは工場の担当部門が保有しており、暫定対応での出荷再開に合わせ、コンピュータシステムがある関東の事業所にそのノウハウを伝授する必要があり、常務から、関東の事業所に伝授できる担当者の出張申請があったのです。
当時の状況下からK次長を出す訳にはいかず、次長以外でその指令を全う出来る社員となるとH氏ということになり、彼の家は被災は免れましたが、震災直後のライフラインが復旧していない時期に、家族の大黒柱に家を空けさせることには気が進まなかったのですが、
“どうだ?ホテルで風呂も準備させるぞ!”
って打診したところ、風呂につられた訳じゃないと思いますが、快く承諾をもらって出張に行ってもらいました。
当時、津波で被災した金融機関の金庫からお金が盗まれたとか、避難して空家になっている家を物色している若い奴らがいるなど、治安が悪くなっている情報が飛び交っていたころでした。
3/18の午後、D社便に便乗して出発し、関東の事業所には22時頃到着、担当部長に待機してもらいホテルに案内してもらった様です。
3/19(土)と20(日)午前中に打ち合わせ及び事業所の担当に伝授し、20日の夜に次のD社便で工場に戻ってくるというスケジュールをこなして頂きました。
この後、第2弾として、海外工場への部材の輸出について引き継ごうと、担当のF氏にも、同様の手段で出張してもらいました。
仙台の乙仲業者が被災し、津波の影響を受けた仙台港からの出航が出来なくなったので、関東の乙仲業者を活用し、関東からの出航を目指したのですが、結果的には乙仲業者のノウハウが伝授しきれず、仙台の乙仲業者に戻し、約1ヶ月遅れての輸出再開という苦い経験もありました。
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