3月12日の行動(4) 予想を遥かに超える津波
あるべき物が何もないんです。
そしてある訳がない物があるんです。
我が家の庭に、小型の漁船がひっくり返っているんです。
“おらいまで(津波が)きたら気仙沼は終わる”とよく言ってたんですが、それが現実になってしまったのです・・・・。
“より子~!(女房の名前)”
大声で何度も呼んでみたのですが、聞こえてくるのは、生活感のない異常な静けさ中でのウミネコの鳴き声だけ・・。
こういう時って、両親には申し訳ないですが、大切な人の中でも、一番大事な人が優先されてしまうんです・・・。
我が家や周辺の状況及び家族が地元の避難所に避難していない・・・・。
絶望感が増す中、避難所に戻り、更に知人に手がかりを確認するも手ががりはありませんでした。
無事だった近所の方々の確認が出来る一方、行方不明の近所の方々の情報も刻々と入り、頭が整理されない状況下の中で、決断したことは、
『女房の実家に連絡を取らなければ!』
でした。
女房の実家は岩手県一関市で、我が家からは約30km離れている“山の中”にあります。
編集後記
画像はブログのトップ画像にもしていますが、近所の畑(西側)から海の方に向かって、基礎しか残っていない自宅と他から流れてきたガレキの状態です。
我が家は、海から直線にして500m以上離れており、震災前は建物や防潮林などによって海は見えませんでした。
現在は岩井崎の吹き上げ岩や竜の松をはじめ、太平洋を一望することができるようになってしまいました。
遠くに見える大きい建物が宮城県立気仙沼向洋高校の校舎、その奥に全漁連の倉庫が津波に耐えて立っていました。
現在の気仙沼向洋高校は、市内の気仙沼高校の第二グランドに仮設校舎を建て、生徒は制約された状況で学んでいますが、将来、ここ階上地区の安全な場所に移転する予定になっています。
旧校舎は震災遺構として保存する予定で検討を進めているところです。
校舎の3階の教室には今でも、津波で流されてきた車が突っ込んだままになっているなど、震災の状態のままになっているそうです。
大震災の翌日の12日は高校の周辺は水が引かず泥沼状態で、更に悲惨な状況でしたが、その日は撮影しようとかの余裕は一切なく、画像は3月15日に撮影したものです。
当時、我が家の2階部分が、全漁連の更に遠くまで流れ、原形のまま存在していたとは予想すら出来ませんでした・・・。
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