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3月12日の行動(3) 震災翌日、自宅へ・・・

公開日: : 最終更新日:2016/03/11 3月12日の行動, 東日本大震災体験談

自分の目で確かめるしかない!

車でどこまで行けるか分からなかったし、避難所の中学校から自宅までは1.5Km位の距離なので、徒歩で向かうことにしました。

途中、近所で仕出し料理を営んでいる同級生に合い、家族は中学校に避難し無事だったが、自宅も店も流され、跡形もないという話を聞きながら、国道を横切り、岩井崎(吹き上げ岩で有名)、御伊勢浜海水浴場の方向に向かうのでした。

JR気仙沼線の踏切を渡る時、南側の線路が津波で流出している光景を見るも、その後の直線道路の両側の家は何ら普段と変わらない光景に違和感を覚えながら自宅を目指すのですが、その直線の半分位から津波によるがれきが見えはじめるも家は残っているのです。

ところが、直線が終わり緩いカーブを過ぎれば我が家、あと300m位のところに瓦屋根の半壊した家が道路のど真ん中に陣取り・・・・。

その道路はあきらめ、大人になってからは歩いたことがない、ガキの頃の遊びに使った裏道をがれきをかき分けながら進むと、光景が一変しました。

あるべき家がほとんどないんです。

あっても1階は無惨な状態、そして、海が近いんです。

今まで家が沢山あったところが、がれきと海というか泥沼というか、その中で向洋高校と全漁連の倉庫だけが異様な姿で持ち堪えていた光景でした。

この時点で我が家も流失している状況は認識したのですが、信じることができず、本来、車で我が家に行く市道も流失し、水も引いていないので、裏を通り、瓦が散乱している近所の畑を通り、自宅(の基礎しか残っていない)へたどり着きました。

あるべき物が何もないんです。

3月12日の行動(4) 予想を遥かに超える津波 つづく

編集後記

自宅には国道45号線から岩井崎方面に向かうのですが、国道から約700m弱、直線道路がつづき、その両側には整列した家並が続きます。

kamimati

震災後に知ったのですが、その町並みは、さかのぼること明治の大津波に遭った際に、我が家よりもっと海沿いの明戸地区(御伊勢浜海水浴場付近)の集落が、津波にて壊滅的な被害に遭い、集団移転にて道路含めて整地し、その直線道路の両側に再建したとのことでした。

その後、津波のことは風化し、また、沿岸部に新たな住民が移転したり、高台に避難した住民が少しづつ戻り(漁業や観光業に携わる家業の場合、より海に近い方が好都合)、また集落ができ、今回の大震災で同じ災害を繰り返したということになります。

今回の大震災の教訓、減災対策として、この周辺には9.8mの高さの防潮堤ができる予定です。
頻発する津波はその防潮堤で防ぎますが、1000年に一度と言われている今回のような東日本大震災の大津波の場合は、9.8mの高さの防潮堤でも防ぐことはできません。
そこで、防潮堤完成後に東日本大震災クラスの大津波が再来したとのシミュレーションにより、防潮堤を乗り越え、津波が到達する所を、『災害危険区域』として、住宅や学校などの施設の建設を制限しています。

この『災害危険区域』に設定により、今回の様な大津波でも人命や住宅等の財産を失うことの再発を防ぐことができるかもしれません。
しかし、その反面、災害危険区域に指定されたところは、先祖代々、守ってきた土地に(生活拠点としては)戻ることは出来ないことになります。

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