生産再開へ(6) 常務が大余震を・・・
本格的に生産が再開される見通しになった4月7日、震災以降、本社経営陣として、初めて常務が工場に入りました。(Y氏と)
東北電力への御礼、気仙沼市役所の都市計画課の方を訪れ仮設住宅の件での相談、市の幹部への挨拶、通信ネットワークの中継地点の依頼・折衝等を行って頂きました。
また、工場幹部とも打ち合わせを行い、生産再開や災害復旧に関しての課題や対応方法についても打ち合わせを行いました。
が、常務が来場しした際、一番記憶に残っていたのが、
“常務が大余震を連れて来た!”
としか考えられないタイミングでの出来事でした。
その夜、当時は土日除きで工場を避難先に変更していたH氏、M氏家族、Y氏と私と常務が工場に宿泊したのです。
晩酌、夕食の後に、私の宿泊場所(和室)は常務に譲り、H氏、Y氏と私は応接室に寝ることになるのです。
その時、社長に手配して頂いた医者からの、 “本当の睡眠促進剤” が手に入っており、社長からは出張時に、1/4片で十分効くから、と言われていたのですが、お酒も入っている状況に、私は若いから1/2位がちょうど良いだろう、と勝手に判断し、睡眠促進剤を飲んで就寝したのです。
大余震は、その日の夜に突然襲い掛かってきました。
発生時刻は夜中の23時32分!
震度6強!!
尋常でない揺れに、誰もが焦った瞬間に、せっかく復旧した電気が、また停電に!
『発電機はどこだ!?』
『◯◯フロアのところの階段部分です!』
『随分、遠くにもって行ったな!、持ってくるぞ!』
てな感じで、役目を終えていた発電機にて、応急発電を行い、灯りを確保し、TVでニュースを確認。
外を見れば地域の方が大勢、工場の門のところに集まっていたので、開門し、一時避難として中のほうへ入ってもらいました。
揺れ方は本震よりすごかったかも知れません。
常務は和室で1人で就寝していた時でしたから、相当、ビックリしたと察します。
ところが、私はそれどころじゃなかったんです。
“本物の睡眠促進剤” による “過剰とも言える睡魔” に襲われ、皆さんが一段落した後に、私を捜したらしいですが、その時、私は既に、寝床で “熟睡モードに再突入” していたのです・・・・。
(常務はその後、なかなか寝られなかったそうですが・・・)
翌日、常務、Y氏が帰路につく直前に停電復旧したと記憶しています。
常務は早期の停電復旧に安堵したと思いますが、一関経由の帰路においては、ガソリンが手に入らない状況や、一関に着いたら高速道路が閉鎖、古川まで数時間かけて国道を南下し、古川から高速へ乗れた(そのころ高速の閉鎖も解除したタイミング・・・)らしく、宮城の大震災の苦痛・苦労のお裾分けをもらって帰るのでした・・。
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