*

生産再開へ(7) 体制の変化

公開日: : 最終更新日:2016/03/11 東日本大震災体験談, 生産再開に向けて

プロジェクト・分科会の体制・メンバーは生産再開・災害復旧の内外的な変動に伴い、刻々と変化していきました。

4/4~宮城工場のプロジェクト・分科会の体制が,、一部微調整ありながらまとまり、当時は災害復旧・被災者支援のやるべき課題・問題が多々あり、間接部門の方々の協力を得て対応している体制でした。

その後に本社からリーダー・メンバーが追記にて送られてきたのですが、何か数合わせ的に思われ、宮城単独で対応すべき分科会までに形式的?に追記された感じがしたので、本社には本当に支援・行動すべきメンバーのみに限定要請しました。

4/20頃になると、いつまでも間接部門のスタッフの本来の仕事を停滞しておく訳にもいかず、災害復旧・被災者支援のやるべきことも目処が立ってきましたので、リーダー・メンバーの変更やメンバーの削減を行っていきました。

開始当時は毎朝の様に全体朝礼を行い、各分科会のリーダーから連絡事項を伝え、その後に分科会リーダーを集めての打ち合わせを実施する。
とのルーチンワークです。

ライフラインの復旧、生産再開も順調に進み、災害復旧、被災者支援の進展も安定してくると、全体朝礼は各分科会から連絡事項がある時のみに変更していき、分科会リーダーの打ち合わせも毎日から1週間に1回、2週間に1回と開催頻度、時間を短縮して行きました。

この状況は、逆に言うと、震災前の普通の状態に近づいて行っていることを意味します。

5月に入ると水道や情報通信で一部課題は残っていましたが、それを除くと生産再開については目処が立ち、ある分科会は解散して通常体制に戻り、通勤もマイカー通勤に戻りました。

膨らんだ受注残を減らそうと、残業、休日出勤の協力を頂き、増産体制に入っていきました。

新たな課題として、東北電力から15%の契約電力の変更の申し出があり、6月に省エネ・節電対策の分科会を新設し、電力削減にてこの夏を乗り切りました。

最近(2011年9月頃)まで、2週間に1回の打ち合わせを継続してましたが、期も変わる時期ですし、多少の課題は残るかもしれませんが、9月でプロジェクトを解散しました。

さいごに(1) 雲の遥か につづく

編集後記

5月が過ぎ、私の私生活も工場での避難生活から知人の紹介によってアパート生活(みなし仮設扱い)に移りました。

その時期に工場も本格生産再開・増産体制になり、工場が震災前の状態に戻ってくると、『社員とその家族を守る!』と決断した目的を果たした心境になり、もういいだろう、と退職し第二の人生を歩もうと決断しました。

そして、お世話になった全国の社員のために、何か残さなければ、と考えた時、大震災の体験談を社内メールで発信しようと行動に移し、6月中旬から10月7日の最終回まで、メモや記憶をたどりながらの原稿作成、発信を繰り返したのです。

 

スポンサードリンク

関連記事

no image

3月12日の行動(5) 実家での出来事

工場に戻る際、山道のルートを変え、○○小学校付近の伯母(父の妹)の家に立ち寄りました。 伯母の

記事を読む

no image

3月14日の行動(3) 情報基地

千厩(岩手県一関市)での買い物を終え、工場に戻ると、既に、海外工場出向組、気仙沼出身組が2台の車で無

記事を読む

no image

3月15日の行動(5) Y氏の体験談

14日の夕方から15日にかけて、本社から災害支援として駆けつけてくれた、Y氏の体験談を紹介します。

記事を読む

no image

私の家族(1) 父の発見情報

当分の間、私の家族のことについて、お付き合いください。 私の家族は、父、母、妻(より子)、長男

記事を読む

no image

3月14日の行動(4) 当たり前の生活

千厩(岩手県一関市)の宿の情報基地から、K次長と帰路に着く頃には暗くなり、実家経由にて帰るのですが、

記事を読む

no image

3月11日の出来事(4) 携帯電話と電気

時間が経つにつれ、周りが暗くなってきている中で、携帯電話がつながらない新たな問題に直面してきたのです

記事を読む

さいごに(3) 最終回、退職のご挨拶

とうとう最終回になりました。 3.5ヶ月もの間、お付き合い頂きありがとうございました。 大変

記事を読む

no image

3/17~31の活動(3) 情報通信

17日からの本格的な4トントラックでの製品出荷を開始すると、本社側との頻繁な情報通信のやりとりが必要

記事を読む

no image

家族からのメッセージ(5) 家族のつながり

目を閉じれば そこには懐かしい故郷の景色、幼い頃の楽しかった思い出。 そして優しかった父、母、

記事を読む

no image

3月15日の行動(4) お裾分け

遺体安置所から工場に戻り、義姉連中は実家に始めに帰り、夕方近くに、K次長、Y氏の弟と一緒に、実家に向

記事を読む

スポンサードリンク

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

スポンサードリンク

no image
時間をかけてはいけない罹災証明書

元旦に発生した能登半島地震の被災者のために、震災を体験し、被災者(自宅

no image
時間が解決してくれる(再建)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に、東日本大震災時の状

no image
時間でしか解決しないことがある(避難・仮設住宅)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に心が痛みますが、13

no image
時間でしか解決しないことがある(こころ)

東日本大震災から13年が経とうとしています。 震災から5年後には

日常と節目と語り部

東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が

→もっと見る

PAGE TOP ↑