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私の家族(7) 母の死亡確認

公開日: : 最終更新日:2016/03/11 東日本大震災体験談, 私の家族

最後に発見された母の時まで、何体の遺体の顔写真をみたことか・・・。

きれいなままの顔もあれば、損傷が激しい顔の写真もありました。
遺体リストの中には焼死体状態で男女判別も不明、顔写真に出来ない遺体も存在していました。

遺族の立場でない人は、その確認行動自体が、苦痛とか、悲惨とか、残酷とか思うかも知れませんが、当事者は全然気になりません。
(そう思うしかありません)

なぜなら、 “家族を早く発見せねば” の目的ですから、違えば “違う顔の写真” でしかないのです。
この感覚が異常と思えば異常なのかも知れませんが、当事者はそんなもんです。

最後の発見の母の時は、顔写真での確認は通用せず、初めて行方不明届けが役に立ったのです。

自衛隊の3日間の集中捜査(3/31~4/2)が行われるというニュースがありましたが、集中捜査の翌日の4/3(日)に、自宅付近を走っていたら、携帯電話がなり、車を止めて出たら警察からの電話で、母らしき遺体が(集中捜査の最終日に)発見されたとの情報だったのです。

女房の時もあり、自分だけの確認では不安で、以前に女房の確認に貢献して頂いた叔母、女房の実家の義姉、更には仙台にいる妹(長女)、母の姉妹等も駆けつけてもらっての遺体確認になったのです。

妹が来るまでに事前に確認したのですが、顔の写真、実際の遺体の顔を見ても、どうしても母とは思えない顔なんです・・・。

ところが、遺留品の中に、見覚えのあるリュックサックが・・・。
私が約30年前に初めて買った車(マツダのファミリア)の景品だったリュックサック・・・。

いまだにそのリュックサックを大事に持っていたことに驚き、更には、その中には、もう入れない位の避難用物資が入っており、母名義の通帳、薬、マスク、着替え、携帯ラジオ、タオルなどなど・・・・。

顔からは母と確定出来なかったのですが、遺留品は明らかに、我が家、母の物であり、車で避難するまでに時間をかけていた理由が分かり、母らしいな~、と納得するのでした。

仙台の妹(長女)が合流し確認すると、
“エー!このリュックサックまだ(大事に)あったの!?”
“あー!この身に付けて衣装は、私が仙台で買ってプレゼントした物!”
“(顔、歯形を見てしばらくし・・)やっぱりお母さんだ~。”

ということで死亡確認となるのですが、どう見ても、私には母の顔には見えなかったのです。
(叔母も今回は写真からは母とは思わなかったとの事)

正直、私にとって、家族の中では性格が似ているところもあったせいか、母とは一番、気が合いませんでした。
結構、気が強くて、私とは大喧嘩にまで発展し、家族に迷惑をかけることも度々ありました。

今回も母は、最後の発見となり、迷惑をかけましたが、それでいて心配性の母が、避難用物資を離すことなく持っていたことで自己主張し、父と女房の元に合流したんだな~。と感じました。

当時、死亡確認より行方不明者が断然多い中、3人揃って発見出来たことは奇跡に近く、せめてもの救いと思っています。

私の家族(8) 母と次女 につづく

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