*

私の家族(8) 母と次女

公開日: : 最終更新日:2016/03/11 東日本大震災体験談, 私の家族

死亡確認した当日(4/3)に市役所に死亡届を提出し、4/15に女房と同じ千厩での火葬と決まりました。

その間、学校の始業の関係と思いますが、遺体安置所を小学校の体育館から、遠く離れれた山間のゲートボール場に移動する旨の連絡があり、慌てて、父と女房の遺骨を仮安置をお願いしていた葬儀屋さんにお願いし、火葬まで母の遺体を預かってもらうことにしました。

母の火葬時、一番、残念・悲しんでいたのが、いわき市に嫁にいった妹(次女)でした。

妹は結婚前、仙台でバスガイドをしていた時、急性骨髄性白血病を発症し、大震災じゃないですが、九死に一生を経験していました。

最初、“長引く風邪”の症状にて通院した、小さな医院から、東北大学付属病院を紹介され、入院し、辛い抗ガン剤治療を行うも、良くならず、骨髄移植しか生きる道がない状況になりました。

兄妹(私と長女)は骨髄液の型が一致する確率が1/4と言われ、検査するも両方の型は次女には一致せず、当時の移植実績からは、名古屋の病院に転院して行うしか選択肢は残されておらず、それでも、
骨髄バンクに登録している中から型が一致するドナーが現れるか?、
本人の体調が移植に耐えられるか?、
というハイリスクもあり、生存確率数パーセントレベルの “一か八かの賭け” での治療選択でした。

最初の転院時には、私が父母と一緒に連れて行きましたが、長期戦の治療には、付き添いが必要であり、母は妹を生かすべく、1人で新幹線で名古屋に往復することが出来る様になり、2人での長期闘病生活となりました。

幸いにも、体調とドナー申し出が合致し、骨髄移植を行い、副作用の障害は残りましたが、生きることが出来たのです。

妹にとって母はドナーの人と同じレベルで “命の恩人” なんです。

妹はその後、生かされた命を、骨髄バンクの推進役として、バスガイドのスキル?を生かし、体験講演やイベントなどで活躍しながら、同じ経験した旦那と結婚し、幸せに暮らしています。

私は母の火葬時には、 “やっと3人が発見でき、気持ちを整理し次のステップ(葬儀)に向かうことが出来る” という悲しみというより、安堵感と言いますか、そちらの方の感情の方が強かったのですが、

“お母さん、ありがとう!”

と最後のお別れの時に泣きながら叫んだ妹の短い言葉には、自分を何とか生かせようと苦労した、頑張った母への感謝の気持ちが全て含まれているのでした。

私の家族(9) 葬儀 につづく

PS
私も骨髄バンクに登録していますが、ドナーになる確率は、宝くじが当たる確率レベルなそうです。
万一、ドナーになり骨髄移植が成功すれが、それでしか生きることが出来ない患者さんを生かすことが出来る、究極のボランティアだと思っています。

スポンサードリンク

関連記事

no image

3月14日の行動(4) 当たり前の生活

千厩(岩手県一関市)の宿の情報基地から、K次長と帰路に着く頃には暗くなり、実家経由にて帰るのですが、

記事を読む

no image

3月11日の出来事(6) 避難場所での一夜

3月11日に戻ります。 暗くなり、小雪が舞うきびしい寒さ、断続的に余震が続く中、当工場の非難場

記事を読む

no image

3/17~31の活動(4) システム対応

大震災以前は、関東の事業所に設置してある、コンピュータシステム(販売管理及び生産管理システム)に、工

記事を読む

no image

生産再開へ(7) 体制の変化

プロジェクト・分科会の体制・メンバーは生産再開・災害復旧の内外的な変動に伴い、刻々と変化していきまし

記事を読む

no image

生産再開へ(6) 常務が大余震を・・・

本格的に生産が再開される見通しになった4月7日、震災以降、本社経営陣として、初めて常務が工場に入りま

記事を読む

no image

私の家族(4) 父の火葬

翌日(3/19)は土曜日ですが、約20名の社員のご協力にて製品出荷を行った日です。 私の方は、

記事を読む

no image

さいごに(1) 雲の遥か

長い間、お付き合い頂きましたが、最終回が近づいてきました。 私は大震災前まで歌を聴いて泣けるこ

記事を読む

no image

3月12日の行動(2) レスポンスの早さ

確か工場点検後、避難場所の玄関フロアに戻った時だったと思いますが、地元運送業者のD社の専務さんが心配

記事を読む

3月15日の行動(1) 車の発見

翌日(15火)の朝になり、Y氏と何とか実家で合流し、実家の2階の部屋にコタツ、ストーブ等を準備しても

記事を読む

no image

私の家族(2) 父の死亡確認

翌日(3/18)の午後、K次長にも立ち会ってもらい、父の死亡確認を行うことになりました。 初め

記事を読む

スポンサードリンク

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

スポンサードリンク

no image
時間をかけてはいけない罹災証明書

元旦に発生した能登半島地震の被災者のために、震災を体験し、被災者(自宅

no image
時間が解決してくれる(再建)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に、東日本大震災時の状

no image
時間でしか解決しないことがある(避難・仮設住宅)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に心が痛みますが、13

no image
時間でしか解決しないことがある(こころ)

東日本大震災から13年が経とうとしています。 震災から5年後には

日常と節目と語り部

東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が

→もっと見る

PAGE TOP ↑