3月14日の行動(4) 当たり前の生活
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最終更新日:2016/03/11
3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
千厩(岩手県一関市)の宿の情報基地から、K次長と帰路に着く頃には暗くなり、実家経由にて帰るのですが、帰る道路の外灯、付近の家の照明がついているのです。
『結構、停電復旧しているな~』
って女房の実家に着いたら、何と、実家も停電復帰し、電気(照明)がついていたのです。
(携帯電話もつながり始めていた)
次長はそのまま帰り、私はその夜、実家に泊まることにしました。
“情報基地を少しでも工場に近づけることができる!”
早速、明日の朝、千厩にいるY氏を実家によこすので、情報基地として場所を貸してもらいたい!と義姉にお願いしましたが、古い家だし、見知らぬ人の出入りは恥ずかしく遠慮したい、との思いがあった様ですが、ここでも無理にお願い、承諾してもらい、早速、Y氏に連絡し、明日の朝、実家に移動する様に要請しました。
その夜は当たり前の生活を送ることが出来たのです。
夜でも明るい部屋で、テレビを見ることができたんです。
実家はポンプアップでの自家水道なので、電気復旧により水道も復旧し、お風呂にも入ることが出来たんです。
おいしい家庭料理をご馳走になり、“普通の生活のありがたみ”を実感すると共に、被災者の中で、こんな早い時期に当たり前の生活を味わっているのは私ぐらいではないか?と思うと申し訳ない気持ちと、皆にもお裾分けしたい気持ちになりました。
義姉からは、
『明日、妹と気仙沼に行ってみたい、ガソリンは行って帰ってくる位はある。』
気仙沼に行きたいとの思いは、我が家(女房)の近くまで行ってみたい、という思いの他に、義姉の娘(私からすると姪)が気仙沼市内の病院で看護婦をしており、会いたいとの思いがあった様です。
(その病院は高台で津波の被害はなく、緊急医療施設として対応中)
私としても、女房の車の発見情報があったことから、自宅付近まで行きたい思いがありましたし、このころから、自衛隊の懸命な道路(国道)の復旧作業が進捗しつつあり、私が案内すれば、最短ルートにて安全に移動できると判断し、隣町の藤沢町に嫁に行った、義妹(女房の妹)夫妻の4人で明日の朝、出発することになりました。
このことは、明日、Y氏は女房の実家で、90歳に近い義母と2人で、情報基地、兼、実家の留守番をお願いすることを意味しています。
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