3月15日の行動(1) 車の発見
翌日(15火)の朝になり、Y氏と何とか実家で合流し、実家の2階の部屋にコタツ、ストーブ等を準備してもらい、簡易情報基地を設置、私と義姉、義妹夫婦の4人は、Y氏に情報基地担当及び実家の留守番をお願いし、気仙沼へと向かいました。
一度、工場によってから、気仙沼市内へは途中まで国道を通行できる状況になっており、それ以降はK次長に教えてもらった裏道を通ってのルートです。
決壊した国道は、凸凹片側通行だったのですが、日々、すこしづづですが、自衛隊の突貫工事にて、道幅は広くなり、がれきについても基幹道路を中心に除去され初め(脇に積み上げる)、私達の感触では、あっという間に国道がつながったというイメージです。
(ホント自衛隊には感謝感謝です!)
自宅付近に着いたら、1日来ないだけで、泥沼化した水は結構引いていました。
義姉、義妹夫婦を流出した自宅跡地などを案内し、私の家が流されたと思われる気仙沼向洋高校の方に下りて行き、女房の車を発見したのです。
“あ~・・・、より子の車だ!”
横倒しの状態でその上に松の木が寄りかかっている状態・・・。
この前までは泥沼化したところに水没していましたが、水が引いたために原形が現れてきたのです。
しかし、まだ水が残っており発見したところから、真っ直ぐには行ける状態ではなかったのです。
たどり着いて、中を確認しなければ!
左側は水溜まりというより泥の状態、底が分からない状況で、一か八か、がれきのタンスみたいな物を船の様にして泥への接触面積をふやし、それに乗って片足で漕いで進み、松の木にしがみつきながら、なんとか車にたどりつきました。
複雑な気持ちで車内を確認することになるのです。
もし居れば生存は絶望的だが発見できる。
居なければ居ないで行方不明が続く・・・・。
壊れた窓から内部を見るも、家族、愛犬の存在はなし。
ホッとした反面、絶望感が増し、これまで自宅の物は何も発見されていない状況につき、万一の場合を考え、遺品候補を集めねば!という考えになり、車の中の小物をかき集めるのでした・・・。
よく言われるのですが、TV等の映像とは違って、実際に知っている地区の震災後の状況を実際の目で見るのでは、悲惨さの伝わり方が全然違うそうです。
義姉、義妹は、着くなり、“エー!” “ウソー!” “何で!”という会話にならない言葉の連続でした。
この時期になると、私もそうですが、義姉、義妹も、生存に関しては、諦めざるを得ない心境になっていました。
どこに居て流されたんだろうか?
みんな一緒だったんだろうか?
どっちの方に流されたんだろうか?
心境は、どういう結果であれ、とにかく早く見つかってもらいたい、という様に変わってきているのです。
このころから、全国から招集された自衛隊や消防署、地元の消防団の懸命な捜索により、遺体が安置所(小学校の体育館等)にどんどん運びこまれている情報も入って来たのです。
スポンサードリンク
関連記事
-
-
3月14日の行動(2) 避難物資の買物教訓
千厩町(一関市)の郊外の大手スーパーやホームセンターに開店待ちで並んでいる状況を無視し、私達は、どの
-
-
支援物資(5) 初動判断
これまでは、ボランティア的な支援物資に関して考察してきましたが、工場再開、災害復旧のために必要不可欠
-
-
3月11日の出来事(4) 携帯電話と電気
時間が経つにつれ、周りが暗くなってきている中で、携帯電話がつながらない新たな問題に直面してきたのです
-
-
3月12日の行動(3) 震災翌日、自宅へ・・・
自分の目で確かめるしかない! 車でどこまで行けるか分からなかったし、避難所の中学校から自宅まで
-
-
支援物資(2) 震災直後は・・・
今回の大震災の被災者は、社内だけでなく、国内、国外等から沢山の支援を頂き、本当に言葉では表すことが出
-
-
3月11日の出来事(1) 会議中の食堂で
2011年3月11日 14時46分 私はじめ工場幹部は、食堂にて、月1回の定例である“課長会議”の開
-
-
3月11日の出来事(3) 津波の映像と携帯不通
とにかく、連絡がつかない、状況がつかめない。 そのような中での私の行動は、駐車場から自分の車を
-
-
3月16日の行動(1) 製品初出荷!
3/16(水)の朝になりました。 この日は、いろいろな事があり、いろいろな事を行いました。 震災
-
-
家族からのメッセージ(1)
『追想』を自費製作するにあたり、残された家族からのメッセージを添えることにしました。 追想は一
-
-
私の家族(9) 葬儀
4/15(金)に最後になった母の火葬が終わり、葬儀屋さんに3人の遺骨が仮安置して頂いた頃、工場はマイ
スポンサードリンク
- PREV
- 3月14日の行動(4) 当たり前の生活
- NEXT
- 3月15日の行動(2) 戦場の中の様な

