3月13日の行動(1) 安否確認
公開日:
:
最終更新日:2016/03/11
3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
大震災から3日目(日曜日)の朝になりました。
翌朝には実家でアンテナが立っていた唯一の庭先の場所は圏外に変化していました。
義姉が、おにぎり等の差入れを持たせてくれて工場に戻りました。
工場に戻り、最初に確認することは、社員及びその家族の安否確認です。
震災の翌日には、K次長、M氏たちが、最初の避難場所である玄関フロアにホワイトボード2つ準備し、1つには工場に訪れる社員への伝言版的な活用、もう一つには、社員及びその家族の安否が判明した人を列記していったのです。
停電状態ということは、パソコンから社員名簿を出力することも出来ず、とにかく、
避難所で**さんと会った!でも家族の安否まで確認しなかった、
**さんから○○さんの家、家族は無事で自宅待機状態との話を聞いた、
等々の安否を確認した人が自ら記入する方式で、無事だったと確認できた社員が刻々と増えていったのです。
今、考えればパソコン活用より、ホワイトボードの活用は、“見える化” “共同活用”の観点では優れていたと思います。
無事の判断基準は、震災翌日以降に無事が確認できた社員、とした記憶があります。
というのは、津波が襲来した以降に工場を出た社員が特定出来たとしても、その後に火災とか津波以外の災害リスクもあったので、安易に無事とは判断出来なかったのです。
本人と連絡取れれば一番確実なのですが、通信網が寸断、機能していない状況からは、社員同士の情報も正確な情報と判断し、安否確認を行っていくのでした。
“やっと、20名の無事が確認できたか・・・・”
“おー、50名近くまで無事が確認できたか~!”
無事の社員が刻々と増えていく中、私の様に、社員の家族の死亡・行方不明の情報も入ってきました。
正直、この時点で、国道をも呑み込んだ津波の大きさ、T夫妻の体験談等からは、
社員の誰かは犠牲になった・・・・。
と、自己責任としたとしても、帰ることを容認したことを後悔し、工場責任者として責任の大きさに押し潰れそうな感じの日が続くのでした。
本社の方に社員家族から、連絡が取れない!との電話があった、という話が伝わってくると、家族を心配でいち早く帰った本人のみが犠牲になったのでは!?と・・・・。
10日目にして、やっと社員全員無事が確認できましたが、今でも、全員無事だったことは奇跡と思っています。
津波の襲来時期と遭遇した場所が数十秒、数分、数百メートル違っていれば、無事だった社員も犠牲になった可能性が高いのです。
神様が、私にこれ以上の仕打ち(試練?)は酷だと、許してくれたのかも知れません・・・。
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