3月11日の出来事(2) 帰せコール
「こんな状況で仕事は出来ない」「家族が心配だ」「大津波警報が発令した」等の意見があいつぎ、
“帰せコール”
になったのです。
確かに、大震災以降は停電したままですので仕事は出来る状況ではありませんでした。
しかし、すぐに帰して良いのかどうかの判断は悩みました。
私たち、地元の人達は、
大きな地震=津波
の連想は、これまでの伝承・教育、経験からは容易に出来ます。
私としては、津波襲来に対し安全なこの工場から出ることは、非常に危険だと思っていましたが、“家族を思う帰せコール”を押さえられることは出来ず、短期に決断した結果は、
“帰っても良いが以降は自己責任・判断にて”
という様な言葉だったと記憶しています。
更に、国道を通ることは危険だぞ!まで言った記憶があります。
この時点で、正直、私には“家族が心配、帰らなければ”とかの考えはなく、とにかく、“現状を把握し本社に連絡しなければ!”しか考えつきませんでした。
更に言えば、津波の連想は出来たとしても、まさか、我が家が流出する様な大きさの津波が襲来することは予想すら出来ませんでした。
「帰る際に総務に連絡してから帰る様に」との呼びかけも行った記憶がありますが、事態は深刻で状況が刻々と変わり、一度、国道に出かけた社員が、津波に遭遇し戻ったり、その後、山道へ迂回して帰路にトライした社員がいるなど、結果的に誰が、いつ、帰路についたか?
把握すら出来ず、時間が経つにつれて、社員の数はどんどん減っていくのでした。
本社、家族に連絡が取れない。固定電話は停電につき不通、頼みの綱が携帯電話になるのですが、今回、携帯電話すら役に立たない状況を目の当たりにしたことはありません。
別途、記述しますが、携帯電話であれ、通信と電気の密接な関係を改めて実感した大震災でした。
編集後記
工場は沿岸から3km程、山間の中腹にあり、大津波が来ても安全な場所でした。
その工場から社員が帰宅する場合、沿岸部の方に下り、沿岸沿いの国道45号線を通行するのが一般的な通勤ルートでした。
従って、帰宅を許可したということは、津波に遭うリスクを高めたということになります。
スポンサードリンク
関連記事
-
私の家族(震災から7年)
東日本大震災から7年が経過しました。 その経過の中で一番感じることは、残された家族・親族との絆
-
3月16日の行動(4) 周知・認識不足
3/16(水)は、公私ともにターニングポイントになった日と前述した様に、非常に慌ただしく、精神的にも
-
震災から4年になるね
じいちゃん(親父)、ばあちゃん(お袋)、ママ(女房)、そっちはどうですか? ケンカしないで、安らか
-
3月12日の行動(1) 工場内の確認
ほとんど眠ることはできず翌朝(土曜日)になりました。 まず、私が行った行動は、明るくなってきた
-
3月15日の行動(5) Y氏の体験談
14日の夕方から15日にかけて、本社から災害支援として駆けつけてくれた、Y氏の体験談を紹介します。
-
私の家族(6) 女房の死亡届・火葬
父の死亡届で経験していますので、女房の時はスムーズでした。 この時にはスクーターが届いており、
-
家族からのメッセージ(7) 一生忘れないよ
おばあちゃん、おじいちゃん、より子ママ・・・ありがとう。 今まで本当にありがとう。 ただこの
-
生産再開へ(1) 気持ちの切替
3/末になると、会社としても年度末対応の結果として上半期が終わり、4月からの下半期を向かえる時期です
-
3月12日の行動(5) 実家での出来事
工場に戻る際、山道のルートを変え、○○小学校付近の伯母(父の妹)の家に立ち寄りました。 伯母の
-
私の家族(9) 葬儀
4/15(金)に最後になった母の火葬が終わり、葬儀屋さんに3人の遺骨が仮安置して頂いた頃、工場はマイ
スポンサードリンク
- PREV
- 3月11日の出来事(1) 会議中の食堂で
- NEXT
- 3月11日の出来事(3) 津波の映像と携帯不通