私の家族(4) 父の火葬
翌日(3/19)は土曜日ですが、約20名の社員のご協力にて製品出荷を行った日です。
私の方は、父の弟妹を中心に死亡確認及び火葬日程を連絡したり、葬儀屋さんに出向き、火葬の段取り(霊柩車の手配等)、被災を免れたご親類に相談に行ったりと、初めての事なので、頭の中が混乱しながら対応した記憶があります。
とにかくガソリンがなかったので、当日(3/22)は、私とK次長の車と、途中から合流した義妹の車の3台に乗れる位の人数での火葬でした。
一関では盛岡に住む叔父(父の弟)夫婦、仙台に嫁に行った妹(長女)は原発事故による子供を心配し一時避難していた秋田から、東京の専門学校に通っていた娘は高速バス・電車を乗り継いで合流しました。
残念ながら、いわき市に嫁に行った妹(次女)は原発事故により、埼玉の方へ一時避難しており、父の火葬参列は諦めざるを得ない状況でした。
父の火葬は発見されてから早い時期に行うことが出来ましたが、場所と時期の関係で、本来見送りすべき人が来られない、寂しい火葬でした。
父の火葬後の問題は遺骨の安置場所です。
菩提寺が津波の被害を受けており、その当時の安置は不可能、お墓も津波でなくなくなり、Y氏を通じ、社長に工場の和室(私の避難場所)に仮安置の打診を行ったところ、快く承諾頂きましたが、遺体安置所での法要の時、和尚さんの知り合いの葬儀屋の会館に仮安置が可能とのお話を頂き、火葬後の遺骨は当面の間、その葬儀会館に安置することが出来たのです。
父はちょっとした手術の後、めっきり弱くなり、中途半端なままの引退は嫌だったみたいで、ほとんどの商売道具を一切整理し、大好きだった旅行や宴会も遠のいていました。
それでもアワビやウニの開口(解禁日)になると、血が騒ぐ様で、“行かねーか?”って誘うのでした。
アワビは出社時間とバッティングするので休みの時のみ、ウニは出社前の時間帯だったので一緒に出漁していましたが、父は箱めがねを見ることも竿を持つこともなく、私が取る脇で船の舵取り役に徹していました。
父は、時々ですが、 “俊勝の会社(工場)を見でーなー” と独り言の様に言っていました。
その度に、私は無言で、心の中では “そのうちな” って思っていましたが、結果的にそれを実現させることは出来ず、父に対しそれが一番の心残りです。
私の権限として、社員家族への工場見学会を企画することも出来ただろうし、個人的に休みにでも父母に工場を案内することだって簡単に出来たのに・・・。
親孝行というのは、このようなちょっとした事でも確実にこなしていくことが、今回の様なことが現実に起こっても、
“後悔先に立たず”
を低減できるのではないかと実感しており、社員の方々には同じ様なことを繰り返してもらいたくないと思っています。
震災、人災はいつどこで起きてもおかしくないのですから。
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