私の家族(5) 女房の死亡確認
以前に、女房の死亡確認において、情けない失態をさらすことになることに触れましたが、恥を忍んで発信します。
息子と合流し、父の火葬(3/22)の前ですから、3/19か20頃だったと思います。
父が見つかり、遺体収容も増加傾向の中、女房、母の発見の可能性が高まってきている状況で、息子と面瀬の遺体収容所に出向いたことがありました。
新たに発見された遺体リストの中から、女房の年齢や体格に近い遺体を2体見つけ、顔写真の確認に入り、“違うよな~”って息子と話したのですが、とにかく遺体を見よう、と当時はまだ父の遺体がある、安置所に入り、警察官から2体の顔を見せてもらっての2人の判断は、 “両方違う!” だったのです。
当時の記憶は、1人は完全に違う、もう1人は、 “顔の輪郭は似ているがこんな顔、髪型じゃない” だったのです。
どこかで、完全一致でないと認めたくない心境があったのかも知れません。
とにかく、後で分かったことは、遺体は発見が遅れる都度、生前の顔とは変化していくのです。
父の火葬が終わった後の3/24に叔母(父の弟の奥さん)から電話があり、
『よりちゃんらしい遺体があるんだけど』
『何番?(遺体番号の確認です)』
『62番!』
『それは、前に息子と見て違うって判断したんだけど・・・』
『写真だけじゃなくて実際に遺体、遺留品みてそう思うんだけど・・・』
叔母の住居は遺体安置所に近く、毎日の様に女房と母を発見しようと通ってくれていました。
そこまで言われると、さすがに自信がなくなり、義姉に連絡したら、即答で午前中で仕事を切り上げ向かうとのこと。
その前に息子と叔母に会って再確認するのですが、私と息子は顔だけで確定出来ず、その時初めて遺留品を見せてもらったのです。
すると、このジャンバー・・・。
この作業用手袋!女房が前勤めていた会社から内証でもらってきていたヤツ!
(普通の人が持っている訳ない・・・・)、
このキャラクター入りの靴下、女房くらいしか履かない・・・。
その後、顔を見てみると、“あー女房だよな”って変わってきたのです。
極めつけは、義姉が到着し遺留品等見ることなく、遺体の顔を見た瞬間、
『あー!より子だ!・・・』
って泣き崩れる姿を見て、私も涙が止まらなくなったのですが、その涙には、早くに死亡確認できたのに遅れてしまった情けなさが混じっているのでした・・・。
その後、警察の手続きに入り、死体検案書を確認すると、発見後の検案日は、父の検案日の翌日(3/19)だったのです。
この教訓は工場の全体朝礼にて、家族・親族が行方不明で遺体確認時には、顔だけで判断するのではなく、遺留品も確認することが重要!と喚起するのでした。
スポンサードリンク
関連記事
-
家族からのメッセージ(7) 一生忘れないよ
おばあちゃん、おじいちゃん、より子ママ・・・ありがとう。 今まで本当にありがとう。 ただこの
-
生産再開へ(5) プロジェクト体制
4/4(月)、大震災以降、初めて工場全社員を対象とした出社がスタートしました。 まず、全体の朝
-
私の家族(8) 母と次女
死亡確認した当日(4/3)に市役所に死亡届を提出し、4/15に女房と同じ千厩での火葬と決まりました。
-
3月11日の出来事(1) 会議中の食堂で
2011年3月11日 14時46分 私はじめ工場幹部は、食堂にて、月1回の定例である“課長会議”の開
-
私の家族(3) 父の死亡届
K次長と気仙沼市役所に到着した時は、既に暗くなってきて、当時、市役所も停電状態で、発電機による電気供
-
支援物資(2) 震災直後は・・・
今回の大震災の被災者は、社内だけでなく、国内、国外等から沢山の支援を頂き、本当に言葉では表すことが出
-
家族からのメッセージ(6) 見守っていてね
3.11 絶対に忘れることのない日です。 私が20年間生きた中でこんな悔しい思いをしたのは初
-
3月15日の行動(4) お裾分け
遺体安置所から工場に戻り、義姉連中は実家に始めに帰り、夕方近くに、K次長、Y氏の弟と一緒に、実家に向
-
3月12日の行動(3) 震災翌日、自宅へ・・・
自分の目で確かめるしかない! 車でどこまで行けるか分からなかったし、避難所の中学校から自宅まで
-
私の家族(4) 父の火葬
翌日(3/19)は土曜日ですが、約20名の社員のご協力にて製品出荷を行った日です。 私の方は、
スポンサードリンク
- PREV
- 私の家族(4) 父の火葬
- NEXT
- 私の家族(6) 女房の死亡届・火葬