*

私の家族(4) 父の火葬

公開日: : 最終更新日:2016/03/11 東日本大震災体験談, 私の家族

翌日(3/19)は土曜日ですが、約20名の社員のご協力にて製品出荷を行った日です。

私の方は、父の弟妹を中心に死亡確認及び火葬日程を連絡したり、葬儀屋さんに出向き、火葬の段取り(霊柩車の手配等)、被災を免れたご親類に相談に行ったりと、初めての事なので、頭の中が混乱しながら対応した記憶があります。

とにかくガソリンがなかったので、当日(3/22)は、私とK次長の車と、途中から合流した義妹の車の3台に乗れる位の人数での火葬でした。

一関では盛岡に住む叔父(父の弟)夫婦、仙台に嫁に行った妹(長女)は原発事故による子供を心配し一時避難していた秋田から、東京の専門学校に通っていた娘は高速バス・電車を乗り継いで合流しました。

残念ながら、いわき市に嫁に行った妹(次女)は原発事故により、埼玉の方へ一時避難しており、父の火葬参列は諦めざるを得ない状況でした。

父の火葬は発見されてから早い時期に行うことが出来ましたが、場所と時期の関係で、本来見送りすべき人が来られない、寂しい火葬でした。

父の火葬後の問題は遺骨の安置場所です。
菩提寺が津波の被害を受けており、その当時の安置は不可能、お墓も津波でなくなくなり、Y氏を通じ、社長に工場の和室(私の避難場所)に仮安置の打診を行ったところ、快く承諾頂きましたが、遺体安置所での法要の時、和尚さんの知り合いの葬儀屋の会館に仮安置が可能とのお話を頂き、火葬後の遺骨は当面の間、その葬儀会館に安置することが出来たのです。

父はちょっとした手術の後、めっきり弱くなり、中途半端なままの引退は嫌だったみたいで、ほとんどの商売道具を一切整理し、大好きだった旅行や宴会も遠のいていました。

それでもアワビやウニの開口(解禁日)になると、血が騒ぐ様で、“行かねーか?”って誘うのでした。
アワビは出社時間とバッティングするので休みの時のみ、ウニは出社前の時間帯だったので一緒に出漁していましたが、父は箱めがねを見ることも竿を持つこともなく、私が取る脇で船の舵取り役に徹していました。

父は、時々ですが、 “俊勝の会社(工場)を見でーなー” と独り言の様に言っていました。
その度に、私は無言で、心の中では “そのうちな” って思っていましたが、結果的にそれを実現させることは出来ず、父に対しそれが一番の心残りです。
私の権限として、社員家族への工場見学会を企画することも出来ただろうし、個人的に休みにでも父母に工場を案内することだって簡単に出来たのに・・・。

親孝行というのは、このようなちょっとした事でも確実にこなしていくことが、今回の様なことが現実に起こっても、

“後悔先に立たず”

を低減できるのではないかと実感しており、社員の方々には同じ様なことを繰り返してもらいたくないと思っています。

震災、人災はいつどこで起きてもおかしくないのですから。

私の家族(5) 女房の死亡確認 につづく

スポンサードリンク

関連記事

no image

私の家族(3) 父の死亡届

K次長と気仙沼市役所に到着した時は、既に暗くなってきて、当時、市役所も停電状態で、発電機による電気供

記事を読む

no image

3月13日の行動(2) 軽自動車の借用

ガソリンが手に入らない状況で、いかに連絡ができるところまで移動し、本社や親戚に連絡をつけるか!?

記事を読む

no image

3月14日の行動(4) 当たり前の生活

千厩(岩手県一関市)の宿の情報基地から、K次長と帰路に着く頃には暗くなり、実家経由にて帰るのですが、

記事を読む

no image

3月16日の行動(3) 決意

本来の避難場所が避難場所にはならなかった状況は、私たちの予想を遙かに超える悲惨な状況でした。

記事を読む

no image

家族からのメッセージ(4) 私のこころ-2

震災当時は、まだ19歳でした。 5月に20歳の誕生日を迎えた時、初めて誕生日なんていらないと思いま

記事を読む

no image

3月12日の行動(2) レスポンスの早さ

確か工場点検後、避難場所の玄関フロアに戻った時だったと思いますが、地元運送業者のD社の専務さんが心配

記事を読む

私の家族(震災から7年)

東日本大震災から7年が経過しました。 その経過の中で一番感じることは、残された家族・親族との絆

記事を読む

no image

3月12日の行動(6) 震災翌日の夜

常務への連絡終了後は、仕事モードから家庭モードへの切替です。 子供たち、妹たちからのメールを受

記事を読む

no image

3月12日の行動(3) 震災翌日、自宅へ・・・

自分の目で確かめるしかない! 車でどこまで行けるか分からなかったし、避難所の中学校から自宅まで

記事を読む

no image

3月16日の行動(2) 生死の境

家庭・生活面においても、この日はターニングポイントでした。 私にある決意をさせることになるので

記事を読む

スポンサードリンク

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

スポンサードリンク

no image
時間をかけてはいけない罹災証明書

元旦に発生した能登半島地震の被災者のために、震災を体験し、被災者(自宅

no image
時間が解決してくれる(再建)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に、東日本大震災時の状

no image
時間でしか解決しないことがある(避難・仮設住宅)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に心が痛みますが、13

no image
時間でしか解決しないことがある(こころ)

東日本大震災から13年が経とうとしています。 震災から5年後には

日常と節目と語り部

東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が

→もっと見る

PAGE TOP ↑