3/17~31の活動(1) 協力体制
公開日:
:
最終更新日:2016/03/11
3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
これからは日付毎ではなく、分野毎に発信していきます。
3/17(木)、この日から地元の運送業者D社さん、その後に支援物資等を関東から運んで頂いたE運送さんの帰り便を活用しての、4トントラックでの製品出荷が本格的に開始されました。
正社員、パート社員、役職関係なく、工場に近くて協力できる社員を募りました。
協力対応時間は、避難所生活の都合、停電・日没の都合等を考慮し、9時~15時の時間を基準として協力を頂き対応して行きました。
9時から全体での朝礼にて、本日の予定や役割分担等を行い、15時頃から全体終礼にて、本日の対応結果や明日の対応予定を明確にしていきます。
3月末迄(年度末)の製品出荷をメインとしたプロジェクトは次の様な体制で遂行されました。(プロジェクト活動として宣言はしませんでしたが)
総括責任者・・・・・・・・・・・・・・・・・自分
製品出荷責任者・・・・・・・・・・・・・K次長
支援物資管理責任者兼守衛・・・・M氏
製造担当責任者・・・・・・・・・・・・・S課長 (3/21の簡易組立開始~)
部材入出庫責任者・・・・・・・・・・・T氏 (3/21の簡易組立開始~)
昼食炊き出し担当・・・・・・・・・・・・M氏のお母さん
土曜日返上し、時には日曜日や祭日をも協力を頂き、のべ13台程の回数、トラックにて関東への製品ピストン輸送、及び、可能な範囲での製品組立を行いました。
そう言えば、最初の頃は原発事故の影響とかで、出荷先が2転3転し、トラックが出発した後に変更の連絡があったりと、“何やってんの!?”って苛立ったこともありました。
16日の2トントラックでの初出荷時には10名程度の協力人数でしたが、その後、発電機が届き、製品組立が可能な範囲で出来る状況になり、口コミでの自主的な協力の輪が広がって行き、多い日には約50名の社員の協力があり、工場の底力を見た様な気がします。
最初の頃は、ほんとうにガソリンが手に入らず、工場から離れている社員は工場に行きたくても行けない状況の中、近場の社員は車だけでなく、自転車やスクーターなどで心配で工場に来て、 “製品出荷再開するので協力もらいたい!” と打診すると、喜んで!是非!ということになり、職種に関係なく、協力してもらえる輪が広がって行きました。
本社からのガソリンの提供を受けた以降は、社用車や燃費の良い社員の車を活用し、近くの地域の人たちの乗り合わせにて、工場と自宅(避難場所)との移動手段と変わっていき、比較的遠い地区の社員からの協力も得ることが出来ていきました。
スポンサードリンク
関連記事
-
家族からのメッセージ(2) 強くなる
東日本大震災から、1年が経とうとしています。 現在、気仙沼を離れて生活しているためか、いまだに
-
3月12日の行動(3) 震災翌日、自宅へ・・・
自分の目で確かめるしかない! 車でどこまで行けるか分からなかったし、避難所の中学校から自宅まで
-
私の家族(9) 葬儀
4/15(金)に最後になった母の火葬が終わり、葬儀屋さんに3人の遺骨が仮安置して頂いた頃、工場はマイ
-
3月13日の行動(2) 軽自動車の借用
ガソリンが手に入らない状況で、いかに連絡ができるところまで移動し、本社や親戚に連絡をつけるか!?
-
3月11日の出来事(6) 避難場所での一夜
3月11日に戻ります。 暗くなり、小雪が舞うきびしい寒さ、断続的に余震が続く中、当工場の非難場
-
3月16日の行動(1) 製品初出荷!
3/16(水)の朝になりました。 この日は、いろいろな事があり、いろいろな事を行いました。 震災
-
3月14日の行動(3) 情報基地
千厩(岩手県一関市)での買い物を終え、工場に戻ると、既に、海外工場出向組、気仙沼出身組が2台の車で無
-
3月11日の出来事(3) 津波の映像と携帯不通
とにかく、連絡がつかない、状況がつかめない。 そのような中での私の行動は、駐車場から自分の車を
-
3月11日の出来事(4) 携帯電話と電気
時間が経つにつれ、周りが暗くなってきている中で、携帯電話がつながらない新たな問題に直面してきたのです
-
3月12日の行動(2) レスポンスの早さ
確か工場点検後、避難場所の玄関フロアに戻った時だったと思いますが、地元運送業者のD社の専務さんが心配
スポンサードリンク
- PREV
- 3月16日の行動(4) 周知・認識不足
- NEXT
- 3/17~31の活動(2) 対策本部