3月15日の行動(3) 行方不明届
市内の病院から地元の気仙沼階上に戻り、どういう結果であれ、早く発見してあげることに優先すべき、との義姉の見解もあり、この日、義姉、義妹夫妻に同行してもらい、初めて “遺体安置所” になっている階上小学校に向かいました。
到着するなり、最初の光景は、主婦が狂った様に泣き乱れている姿・・・・。
家族になだめられるも全然、収まる気配がない状況を横目にしながら、受付になっている教室に入るのでした。
中に入ると何人かの警察が対応中で、私達も何分か順番待ちを行い、その後、 “遺体安置所の確認プロセス” を教えてもらったのです。
1)まず、遺体リストが同じ物で5冊程準備され、5家族が同時に確認できる様になっており、そのリストには、氏名が分かる人は氏名、発見場所、身長、体重、身体的特徴、遺留品があれば遺留品の内容等がリストアップされており、該当しそうな遺体を番号にてリストアップします。
2)この時はなかったのですが、その後、該当しそうな遺体について顔写真を閲覧することが出来ます。1)を省略して全ての顔写真を閲覧して探し出す方法もありです。
3)該当しそうな人がいた場合に、初めて安置している体育館に警察から案内してもらい、直接、遺体や遺留品を確認することが出来ます。
4)その時点で該当した場合に、死亡届・死体検案書の死体検案書側に警察が記入された物を受領し、市役所に死亡届を提出する手続きになります。
この日は、まだ、遺体数も少なく、あっという間に該当なしの結果になったのですが、警察から行方不明届を提出した方が良いということになり、この日に3人の行方不明届を提出することになったのです。
ここで問題は、氏名、生年月日は分かっているのですが、身長、体重、身体的特徴が???なのです。
この時、助かったのは、義姉、義妹と一緒だったので、
私と同じ位の身長だから、***cm位、
体重は**kg位じゃないか、
髪は***、
ピアスは付けていたっけ?左側だけに開けてたな~。
じいちゃんは****。
てな感じで3人の届けを済ませることが出来ました。
こういう時、本当に男って役に立たないな~。って実感しました。
実は女房の死亡確認において、後で、更に情けない失態をさらすことになるのです。
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