3月15日の行動(2) 戦場の中の様な
自宅付近を確認後、次に目指したのは気仙沼市内にある病院です。
国道45号線に平行する山沿いの農道を走り、無事に到着しました。
私にとって、大震災以降、女房の実家-工場-地元の避難所の行動範囲だけだったので、被災地の範囲では、初めての遠出になりますが、野次馬根性で市内の被災状況を見てみたいとかの考えは一切起きず、逆に、見たくない心境と、より安全に早く義姉に娘さんを会わせたい心境が、安全なルートを運転させました。
途中、姪家族が住んでいるアパートを訪れましたが不在でしたので、病院に直行することにしました。
病院に着くと、脇にはでかい発電機がうなりを上げ運転、自家発電にて開業していました。
中に入ると溢れんばかりの人、人、人・・・。
まるで戦場の中の病院という感じで切迫感、緊張感が張りつめていました。
気仙沼市内の多くの病院も津波で大きな被害を受けており、無事だった病院に病人、怪我人が殺到したと思われます。
あとで、石巻赤十字病院のドキュメンタリー等も見ましたが、当時の医師、看護婦さん達は震災直後はプロフェッショナルに徹し、経営や給与等を度外視して市民の命を守ろうと必死だったと思われます。
やっと見つけた姪は、気丈にテキパキと仕事をこなしている状況で、その姿を見た時には、自分より姪がすごいことしている!って圧倒されました。
が、義姉や私達を見つけるなり、緊張感が崩れたのか、あっという間に看護婦から娘に変身して涙の対面でした。
姪の旦那さん、子供さん、嫁に行った実家(内湾近くで津波で半壊)の家族も全員無事とのことで、安心するも、姪には女房のことを話さなければならなかったのですが、姪はうちの女房を “ねーちゃん” 呼びで慕っていたので、相当にショックだった様です。
やはり、姪は、震災以降はアパートに帰ることも出来ず、病院に泊まり込み、多忙な状況で看護している状況でした。
再会を喜び、物資の差入れを置き、帰ることになるのですが、その時、義姉が持っているB社の携帯電話はバリ3の通信状態だったのです。
B社が近くの市役所付近に移動中継基地を設置し、災害復旧や情報発信に貢献していることを聞き、私が契約しているA社との違いを感じました。
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