3月12日の行動(2) レスポンスの早さ
確か工場点検後、避難場所の玄関フロアに戻った時だったと思いますが、地元運送業者のD社の専務さんが心配で駆けつけていました。
D社の社長さんは地元企業の集まりの会の会長、そして私が副会長の関係で、週一回、関東からの定期便をお願いしている会社です。
このレスポンスの早は、今考えればD社の企業体質であり、その後、大手の運送会社が機能不能の状態の中で、相互の生き残り策として、これまで以上の連携につながるのでした。
その時点でひらめいたことは、年度末のこの状況、生産はすぐに再開できないにしても、製品の出荷は出来るか!?です。
専務さんに事情を話し、次のようなやりとりがあったと記憶しています。
*D社さんは大丈夫だったのか?
*会社(D社)は多少、水が上がったがトラックは無事。
*国道は寸断されて通行不能、しかし、4トントラックであれば、迂回路を通り運送できるかも知れない。
*製品運搬のピストン輸送をお願いするかもしれないので社長に伝えてもらいたい。
さて、この頃から一晩、工場に避難した社員も、家族、自宅を心配し帰り始めました。
M氏家族が、当分、工場に避難(待機)している、との話から、M氏に留守番をお願いし、私も車で山道の迂回路を通り、避難場所になっている気仙沼市立階上中学校に向かいました。
気が動転していたせいか、記憶が薄いのですが、避難所の中学校体育館には、着の身着のままの状態で避難した沢山の人がいる状況の中、一角に、ご近所の集団を見つけ、私の家族の消息を確認するも不明のまま・・・。
唯一の手がかりは、その日、女房がワカメの加工の手伝いに行っていた家族に会うことができ、地震直後に自宅、家族(愛犬含む)が心配とのことで、車で自宅に戻ったとのこと。
その後、近所(隣の家)で社員のT夫妻家族と会うことが出来ました。
そこで聞いた話は衝撃的だったことだけは覚えています。
1)会社から早く出て国道を走り、御伊勢浜(海水浴場)方面に曲がったところで、津波が押し寄せてくるのが見え、Uターンして九死に一生を得た。
2)T夫妻の自宅は流されてないらしい・・・。
3)上の娘も危なかった。
(後で分かったが、途中まで私の家族と避難したらしい)
自分の目で確かめるしかない!
スポンサードリンク
関連記事
-
生産再開へ(6) 常務が大余震を・・・
本格的に生産が再開される見通しになった4月7日、震災以降、本社経営陣として、初めて常務が工場に入りま
-
さいごに(3) 最終回、退職のご挨拶
とうとう最終回になりました。 3.5ヶ月もの間、お付き合い頂きありがとうございました。 大変
-
私の家族(8) 母と次女
死亡確認した当日(4/3)に市役所に死亡届を提出し、4/15に女房と同じ千厩での火葬と決まりました。
-
支援物資(1) 感謝と感激
3月19日の朝に、それまでの支援物資の量とは比較にもならない、沢山の支援物資を、日本全国のみならず、
-
3月12日の行動(1) 工場内の確認
ほとんど眠ることはできず翌朝(土曜日)になりました。 まず、私が行った行動は、明るくなってきた
-
3月14日の行動(4) 当たり前の生活
千厩(岩手県一関市)の宿の情報基地から、K次長と帰路に着く頃には暗くなり、実家経由にて帰るのですが、
-
家族からのメッセージ(6) 見守っていてね
3.11 絶対に忘れることのない日です。 私が20年間生きた中でこんな悔しい思いをしたのは初
-
私の家族(3) 父の死亡届
K次長と気仙沼市役所に到着した時は、既に暗くなってきて、当時、市役所も停電状態で、発電機による電気供
-
生産再開へ(5) プロジェクト体制
4/4(月)、大震災以降、初めて工場全社員を対象とした出社がスタートしました。 まず、全体の朝
-
家族からのメッセージ(7) 一生忘れないよ
おばあちゃん、おじいちゃん、より子ママ・・・ありがとう。 今まで本当にありがとう。 ただこの
スポンサードリンク
- PREV
- 3月12日の行動(1) 工場内の確認
- NEXT
- 3月12日の行動(3) 震災翌日、自宅へ・・・