3月16日の行動(3) 決意
本来の避難場所が避難場所にはならなかった状況は、私たちの予想を遙かに超える悲惨な状況でした。
隣の行政区の避難場所(私の家族が避難した場所と高さ的には同じ位)には40~60名位避難したらしいですが、ほとんどの方が死亡、行方不明の状況です。
先日、葬儀があったのですが、その地区では家族7名が流され、残されたのは地区にいなかった女子高生1人だけ、という被災家族も存在しています。
そのような中、隣の娘さんだけではなく、他の場所においても相当の人が“奇跡的”を体験したみたいです。
ついさっきまで一緒にいた人が犠牲になる、自分は奇跡的に助かる・・。
は、助かった人にも相当の精神的ダメージがあった様で、T夫妻の娘さんは2日間泣きどおしだったらしく、避難の状況を口にしたのは相当の期間が経ってからと聞きました。
生かされた、残された者は、現実を現実として受けとめることが出来ず、特に1人になると、現実から回避したい衝動に駆られます。
私の場合、その回避手段が “仕事” でした。
年度末の状況下、明日から本格的に出荷できる製品を出荷し、少しでも売上につなげ、会社を存続させ、工場の社員・家族を守る・・・。
私はこのことに集中することを決断しました。
しかし、逆に犠牲にしなければならない決断もありました。
それは “地域貢献・支援” です。
高齢化社会、地区内にすれば、私の年齢は “わげすたず(若い連中)” の分類になり、本来であれば、被災した地区のために、みんながいる避難場所で一緒に過ごし、役割分担に応じ、率先して被災者のサポート・支援を行うのがスジなんです。
しかし、ライフラインが寸断、ガソリンが手に入らない状況下、地元避難所での被災者支援と、工場で社員の安否確認や製品出荷業務の両立は困難で、どちらかを犠牲にするしかありませんでした。
私は工場責任者として、地域貢献を犠牲にし、会社を選択し、当面の避難場所を工場と決めました。
そして、その夜、寝る前に、子ども達、妹達に、決意のメールを送ったのです。
それでなくても携帯電話でのメール入力が遅いのに、決意のメール入力時には溢れる涙が視界をさえぎり・・・・。
以下が送信したメールです。
パパの決意、どのような結果になっても
ママはパパの仕事の一番の理解者でした。
社員・家族の生活を揺るがすことは望んでいないはずです。
地元も大事ですが、今は、会社がつぶれ、約○○名の社員及びその家族が路頭に迷うことがないように、今は、そのことだけに集中し、行動し、やり遂げます。
そして、ママに”どうだ!“って自慢します。
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