生産再開へ(7) 体制の変化
プロジェクト・分科会の体制・メンバーは生産再開・災害復旧の内外的な変動に伴い、刻々と変化していきました。
4/4~宮城工場のプロジェクト・分科会の体制が,、一部微調整ありながらまとまり、当時は災害復旧・被災者支援のやるべき課題・問題が多々あり、間接部門の方々の協力を得て対応している体制でした。
その後に本社からリーダー・メンバーが追記にて送られてきたのですが、何か数合わせ的に思われ、宮城単独で対応すべき分科会までに形式的?に追記された感じがしたので、本社には本当に支援・行動すべきメンバーのみに限定要請しました。
4/20頃になると、いつまでも間接部門のスタッフの本来の仕事を停滞しておく訳にもいかず、災害復旧・被災者支援のやるべきことも目処が立ってきましたので、リーダー・メンバーの変更やメンバーの削減を行っていきました。
開始当時は毎朝の様に全体朝礼を行い、各分科会のリーダーから連絡事項を伝え、その後に分科会リーダーを集めての打ち合わせを実施する。
とのルーチンワークです。
ライフラインの復旧、生産再開も順調に進み、災害復旧、被災者支援の進展も安定してくると、全体朝礼は各分科会から連絡事項がある時のみに変更していき、分科会リーダーの打ち合わせも毎日から1週間に1回、2週間に1回と開催頻度、時間を短縮して行きました。
この状況は、逆に言うと、震災前の普通の状態に近づいて行っていることを意味します。
5月に入ると水道や情報通信で一部課題は残っていましたが、それを除くと生産再開については目処が立ち、ある分科会は解散して通常体制に戻り、通勤もマイカー通勤に戻りました。
膨らんだ受注残を減らそうと、残業、休日出勤の協力を頂き、増産体制に入っていきました。
新たな課題として、東北電力から15%の契約電力の変更の申し出があり、6月に省エネ・節電対策の分科会を新設し、電力削減にてこの夏を乗り切りました。
最近(2011年9月頃)まで、2週間に1回の打ち合わせを継続してましたが、期も変わる時期ですし、多少の課題は残るかもしれませんが、9月でプロジェクトを解散しました。
編集後記
5月が過ぎ、私の私生活も工場での避難生活から知人の紹介によってアパート生活(みなし仮設扱い)に移りました。
その時期に工場も本格生産再開・増産体制になり、工場が震災前の状態に戻ってくると、『社員とその家族を守る!』と決断した目的を果たした心境になり、もういいだろう、と退職し第二の人生を歩もうと決断しました。
そして、お世話になった全国の社員のために、何か残さなければ、と考えた時、大震災の体験談を社内メールで発信しようと行動に移し、6月中旬から10月7日の最終回まで、メモや記憶をたどりながらの原稿作成、発信を繰り返したのです。
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