家族からのメッセージ(6) 見守っていてね
公開日:
:
最終更新日:2016/03/11
家族からのメッセージ, 東日本大震災体験談
3.11
絶対に忘れることのない日です。
私が20年間生きた中でこんな悔しい思いをしたのは初めてです。
うまく言葉に出来ないけど、今でもあの感覚は忘れられません。
いまだに受け止められないし、信じたくない事実です。
私が生まれてから毎年 気仙沼で新年を迎え、おばぁちゃんとより子ママの作ったずんだ餅と、おじぃちゃんがさばいてくれる新鮮なマグロが大好きでした。
夏には水着で海に行き、帰ってきてまた水遊び。
おじぃちゃんの採った真っ黄色で甘いトウモロコシ。
そこにはいつもみんなの笑顔。
だんだん私が大きくなって、なかなか気仙沼に帰れない時期が続いても、行けばいつも暖かく『おかえり~』と迎えてくれました。
どうしてこんな幸せを奪うの!?
誰が想像したでしょう。
震災当日は電気もなく、ただただ星が綺麗で・・・悲しいくらい綺麗で・・・涙が出ました。
きっとみんなの気持ちが1つになったんだな・・・って。
今はもう・・・戻ることはないけど、これから私が出来ることは1つだと思います。
目の前のことに立ち向かい、精一杯やることです。
それがどんなに小さなことでも、ツライことでも。
私たち家族はずっと繋がっているから・・・
おじぃちゃん、おばぁちゃん、より子ママ、ずっと見守って居て下さい。
編集後記
妹(長女)の一番上の娘は、私の娘の一つ上でしたので、子供の頃の盆正月は、歳が近いいとこ同志、姉妹のように遊んでいました。
年頃の思春期になると、実家に帰ってくる回数が減ってきて、来るたびに変貌していく姪に、叔父(私)は、
『おぅ!ギャル来たな!?なんじゃ!その格好?』
って、からかっていました。
思春期の反抗期は、母(妹)との衝突もあったらしいです。
しかし、震災後に結婚し、子供(長男)を出産し、親となって育児に悪戦苦闘しながらも、先輩の母(妹)を慕って、大切な家庭を築いてるようです。
姪としても辛い思いをしましたが、私の家族や、妹家族の存在を常に意識し、それ以上の家族になってもらいたいものです。
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