私の家族(8) 母と次女
死亡確認した当日(4/3)に市役所に死亡届を提出し、4/15に女房と同じ千厩での火葬と決まりました。
その間、学校の始業の関係と思いますが、遺体安置所を小学校の体育館から、遠く離れれた山間のゲートボール場に移動する旨の連絡があり、慌てて、父と女房の遺骨を仮安置をお願いしていた葬儀屋さんにお願いし、火葬まで母の遺体を預かってもらうことにしました。
母の火葬時、一番、残念・悲しんでいたのが、いわき市に嫁にいった妹(次女)でした。
妹は結婚前、仙台でバスガイドをしていた時、急性骨髄性白血病を発症し、大震災じゃないですが、九死に一生を経験していました。
最初、“長引く風邪”の症状にて通院した、小さな医院から、東北大学付属病院を紹介され、入院し、辛い抗ガン剤治療を行うも、良くならず、骨髄移植しか生きる道がない状況になりました。
兄妹(私と長女)は骨髄液の型が一致する確率が1/4と言われ、検査するも両方の型は次女には一致せず、当時の移植実績からは、名古屋の病院に転院して行うしか選択肢は残されておらず、それでも、
骨髄バンクに登録している中から型が一致するドナーが現れるか?、
本人の体調が移植に耐えられるか?、
というハイリスクもあり、生存確率数パーセントレベルの “一か八かの賭け” での治療選択でした。
最初の転院時には、私が父母と一緒に連れて行きましたが、長期戦の治療には、付き添いが必要であり、母は妹を生かすべく、1人で新幹線で名古屋に往復することが出来る様になり、2人での長期闘病生活となりました。
幸いにも、体調とドナー申し出が合致し、骨髄移植を行い、副作用の障害は残りましたが、生きることが出来たのです。
妹にとって母はドナーの人と同じレベルで “命の恩人” なんです。
妹はその後、生かされた命を、骨髄バンクの推進役として、バスガイドのスキル?を生かし、体験講演やイベントなどで活躍しながら、同じ経験した旦那と結婚し、幸せに暮らしています。
私は母の火葬時には、 “やっと3人が発見でき、気持ちを整理し次のステップ(葬儀)に向かうことが出来る” という悲しみというより、安堵感と言いますか、そちらの方の感情の方が強かったのですが、
“お母さん、ありがとう!”
と最後のお別れの時に泣きながら叫んだ妹の短い言葉には、自分を何とか生かせようと苦労した、頑張った母への感謝の気持ちが全て含まれているのでした。
PS
私も骨髄バンクに登録していますが、ドナーになる確率は、宝くじが当たる確率レベルなそうです。
万一、ドナーになり骨髄移植が成功すれが、それでしか生きることが出来ない患者さんを生かすことが出来る、究極のボランティアだと思っています。
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