*

3月14日の行動(3) 情報基地

公開日: : 最終更新日:2016/03/11 3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談

千厩(岩手県一関市)での買い物を終え、工場に戻ると、既に、海外工場出向組、気仙沼出身組が2台の車で無事に宮城工場に到着していました。

その時点で海外工場責任者Eさんのお父さんの死亡が確認できたと記憶しており、既にEさんは避難所の家族のところに直行していました。

この時、初めての緊急物資と共に到着したのですが、緊急物資もそうですが、本社から社員が来てもらったということが、非常に心強く、助かった~、という、感覚だったことを覚えています。

特にY氏には、震災直後に家族を関東に残し、気仙沼市内にある実家の災害確認や手伝いもすることが出来ない程、工場の為に尽力して頂いたことに、今でも感謝の気持ちで一杯です。
(この時も半強制的な依頼を何度もお願いしました。)

Y氏は本社から携帯電話の通信を活用し、ネットやメール送受信が出来るパソコンを持参してきました。
携帯電話がつながる場所に行けば、電話での1対1のやりとりの通信だけでなく、データ添付でのやりとり、不特定多数に一気に同じ情報を発信、受信できる、というメール特有の情報通信が可能になるのです。

Y氏にその情報基地担当をお願いしたのです。
夕方、再度千厩に行って本社に連絡する際、Y氏にも同行してもらい、千厩のどこかに携帯電話がつながる宿があれば情報基地として、本社との通信担当をお願いしたのでした。

その出発時間まで、Y氏は気仙沼地区の被災状況や避難所の状況等を把握しようと、車で走り回っていたらしいですが、余震で倒壊寸前の2本の電柱の完全倒壊に遭遇し数秒違っていたら車に直撃していた、とか、大きな岩が崖から崩れて車に直撃寸前だったとか、危険な状況下で、気仙沼の状況を的確に掴み、本社への報告をすべく頑張っていた様です。

私は出発時間まで、避難所に出向き、Eさんと会い、自然に抱き合い、2人で涙を堪えることが出来ない状況でも、“がんばっぺし”って前向きにやろうって感じだったと思います。

その後、近所の人に会い、
『よりちゃん(女房)の車らしいのがあったぞ!』
と聞き、すぐにでも自宅周辺に行きたかったのですが、千厩への再出発予定によって、その日に行くことを諦めるしかありませんでした。

K次長とY氏と私の3人で2台の車で、再度、千厩に出発し、本社への連絡を行い、米を購入し、情報基地としての宿探しを行いました。
1件目の旅館には断られ、2件目の旅館で事情を説明したところ、風呂、食事等のサービスが出来ないとのことから、素泊まりレベルでの宿泊にてOKをもらい、パソコンのセッティング等を行い、Y氏だけを情報基地のその宿に残し、私と菊田次長は帰路につくのでした。

余震が続く中、Y氏は一人っきりで心細かったと思います。

3月14日の行動(4) 当たり前の生活 につづく

スポンサードリンク

関連記事

私の家族(震災から7年)

東日本大震災から7年が経過しました。 その経過の中で一番感じることは、残された家族・親族との絆

記事を読む

no image

私の家族(4) 父の火葬

翌日(3/19)は土曜日ですが、約20名の社員のご協力にて製品出荷を行った日です。 私の方は、

記事を読む

no image

3/17~31の活動(5) 仮事務所の増殖

発電機が手に入り、組立できる製品の部材の出庫や組立作業を開始するとなると、製品物流以上のコンピュータ

記事を読む

no image

家族からのメッセージ(7) 一生忘れないよ

おばあちゃん、おじいちゃん、より子ママ・・・ありがとう。 今まで本当にありがとう。 ただこの

記事を読む

no image

さいごに(1) 雲の遥か

長い間、お付き合い頂きましたが、最終回が近づいてきました。 私は大震災前まで歌を聴いて泣けるこ

記事を読む

no image

3月14日の行動(1) 地震だけだったら・・

14日の朝(月)になりました。 K次長と “借用した燃費のよい軽自動車” にて工場を出て、実家

記事を読む

no image

3月12日の行動(6) 震災翌日の夜

常務への連絡終了後は、仕事モードから家庭モードへの切替です。 子供たち、妹たちからのメールを受

記事を読む

no image

3月12日の行動(3) 震災翌日、自宅へ・・・

自分の目で確かめるしかない! 車でどこまで行けるか分からなかったし、避難所の中学校から自宅まで

記事を読む

no image

生産再開へ(6) 常務が大余震を・・・

本格的に生産が再開される見通しになった4月7日、震災以降、本社経営陣として、初めて常務が工場に入りま

記事を読む

no image

私の家族(3) 父の死亡届

K次長と気仙沼市役所に到着した時は、既に暗くなってきて、当時、市役所も停電状態で、発電機による電気供

記事を読む

スポンサードリンク

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

スポンサードリンク

no image
時間をかけてはいけない罹災証明書

元旦に発生した能登半島地震の被災者のために、震災を体験し、被災者(自宅

no image
時間が解決してくれる(再建)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に、東日本大震災時の状

no image
時間でしか解決しないことがある(避難・仮設住宅)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に心が痛みますが、13

no image
時間でしか解決しないことがある(こころ)

東日本大震災から13年が経とうとしています。 震災から5年後には

日常と節目と語り部

東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が

→もっと見る

PAGE TOP ↑