3月12日の行動(5) 実家での出来事
工場に戻る際、山道のルートを変え、○○小学校付近の伯母(父の妹)の家に立ち寄りました。
伯母の家はギリギリで津波の被害を免れてあり、簡潔に家族が見つからない旨を話し、暖かい飲み物をご馳走になって出る時に、
『これ持って行きなさい!』
って手渡されたのが、レバーをクルクル回して携帯電話に充電する充電器でした。
これは助かる!ってお礼し、工場に戻りました。
M氏に、女房の実家に行き泊まってくるかも知れない、と留守番をお願いし、実家に向かうのでした。
実家までの道路は、ところどころ凹凸はあるものの、普段の風景と変わらない道路を走り、実家に30分位で到着しました。
直ぐ、庭先に義姉がいるを見つけ、寄っていくも不審者が来た様な警戒顔(多分、髪ボサボサ、無精ひげだったから・・)だったので、
『気仙沼の菊田!』
って叫んで、はじめて私と認識してもらいました。
今考えれば、いままでしたこともない、義姉と自然に抱き合い、
『良かった!大丈夫だったんだ!』
の泣き声に、辛い事実を伝えなければなりませんでした。
『申し訳ね~!より子が見つからない。親父、お袋も・・・・』
その瞬間、
義姉の体は脱力感というのか、崩れ落ちそうになり、泣き声が大きくなり、私は涙を堪えて、お姉さん抱き支えていることしか出来ませんでした。
どの位の時間が経ったでしょうか・・・・。
お姉さんも正気に戻り、自分の足で歩ける状況になり、庭先から自宅の中に入ろうとした瞬間、私の携帯のメール受信の音声が鳴ったのでした。
90歳に近い義母への挨拶もそこそこ、携帯のメール受信の音声は、私の頭脳を仕事モードに切り替えるのでした。
メールを受審したということはアンテナが立つ場所があるということ、工場で経験した様に、庭先のある地点のみ弱いですがアンテナが立ったのです。
早速、本社の常務に連絡するも、途中で携帯電話の電池切れで中断・・。
クルクル充電器は回すも中々蓄電できず、直ぐに電池切れの状態。
その時、近所のおじさんが尋ねてきて、奥さんが沿岸地区の○○○で介護の仕事がしているが消息がつかめず、手がかりを求めてきたとのこと。
『○○○であれば、あそこは高いですから大丈夫だと思いますよ、ちょっとこれを回してもらえないですか!?』
(のちに、その方の奥さんは無事だったことが分かりました)
ってお願いし、その間に、何とか常務に連絡し、女房の実家にきてやっと携帯がつながった状況や、D社さんとの連携にて製品出荷の実現性を説明しました。
本社からは海外工場への出向組4名が翌日(13日)に東京の空港に到着し、その日に気仙沼出身社員と合流し、レンタカーで宮城に目指すことを知り、相変わらずの海外工場責任者Eさんのレスポンスの早さに驚くと共に、
無事に気仙沼までたどり着けるのか?
ルートがあるのか?
と、心配だった記憶があります。
連絡が終わり、携帯を切り、クルクル充電器の回すのをやめてもらったら、即座に充電切れの状態になるのでした・・・。
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