3月11日の出来事(5) 唯一の情報入手源
もう少し、通信不能の状況についてお付き合いください。
震災後、数日間の唯一の情報入手源はラジオしかありませんでした。
その間、被災地とそれ以外の方々の心境は正反対だったと察します。
被災地以外の方々は被災地の家族や知人などの安否を確認したくとも確認出来ない。
あらゆる方法で安否確認をしようと努力していたと思います。
何度も携帯電話で通話を試みたり、メールを送信したり、更にはラジオを活用しての安否確認等・・・・。
ラジオにて、
「**さん心配しています。**まで連絡ください」とか、
「伝言板に入れてください」とか、
なぜ、連絡くれないのか!?もしかして!?
とかの不安な心境が続いたのではないでしょうか?
被災地側は逆に、ラジオの一方的な安否確認の番組に対し、
「連絡したくても、(圏外のままで)連絡できないんだよ!!」
って、逆に苛立っていたことを覚えています。
地震以上に大津波にてライフラインが壊滅状態であることを知った被災地の人達は、被災地内の安否確認は、自分の足で、自分の耳と目で確認するしかない。
と認識するまでに多くの時間は必要ではありませんでした。
さて、震災地域の工場周辺に限って、大手携帯電話会社の復旧スピードについての私個人的な評価です。
被災地域や個人によっては評価結果は違うと思いますので参考程度に受け取って頂ければと思います。
A社→震災直後、正直、B社に変えようか!と思った位、頼りなかったです。
しかし、その後、ものすごい復旧スピードで特に品質面(電波の強さ)で挽回してきて、私の気持ちが治まりました。
B社→初期は非常に早い対応でした。
移動中継局の設置(気仙沼市街)情報も一番早く、工場近辺で電波は非常に弱いも一番早く開通できた携帯電話会社でした。
C社→論外です。当分の間、携帯電話がおもちゃ状態だった様です。
編集後記
携帯電話会社は震災を教訓に、各社さまざまな対策を切磋琢磨しながら対応してきていますので、現在は当時と相当変わってきているのではないかと思います。
TVやインターネット接続など、さまざまな機能が携帯電話について、震災時には、停電で固定電話やテレビなどの情報通信網が途絶えても、携帯電話が有効活用できるはずでしたが、中継局からの電波が届かない状況下は、おもちゃでしかありませんでした。
また、電波が改善されたとしても、停電によって携帯電話に充電ができない状況では役に立ちません。
コンセント以外から携帯電話に充電させるツール(例えば電池や太陽光からの充電)も是非、準備しておくべきですね!
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