3月11日の出来事(4) 携帯電話と電気
時間が経つにつれ、周りが暗くなってきている中で、携帯電話がつながらない新たな問題に直面してきたのです。
携帯電話のアンテナが立たない状況になってきたのです。
電話をかける人が殺到し、携帯電話会社が回線を規制だけであれば、アンテナが立てば、電話は無理だったとしても、メールとかでのやりとりも出来たはずです。
(私も残された家族とは当日でも多少メールのやりとりできました。)
私の携帯はA社ですし、工場の携帯(グループ間は一定料金)も、A社で契約しており、ある時、工場内はA社のアンテナが弱いと苦情を出したところ、会社の目の前に、まるで当工場のための無線中継局を設置してもらった経緯があり、A社の携帯はバリ3状態だったのです。
ところが震災から時間が経つにつれ、アンテナが立ちづらくなり、ある時間帯は、唯一、事務所前の受水槽付近の1ヵ所のみ、弱い状態ながらつながる状況でしたが、寒さも厳しくなり、そこに立っていること自体つらい状況になり、社用車をそこに移動して車内で試行してみたりもしましたが、窓を閉めただけで圏外になる様な弱い信号レベルだったのです。
考えてみれば、携帯電話の無線中継局だって電気で機能しているのです。
中継局の規模によっては、蓄電池等で数時間は機能していた中継局があり、工場の目の前の中継局はあっという間に機能を失い、もっと離れていた規模の大きい中継局に電波が弱い状態でつながっていたと思われます。
ここまで記述すれば想像できると思いますが、停電復旧の見通しが全然立たない状況下、工場で唯一つながっていた場所においても、圏外になるのは時間の問題でした。
更には、携帯電話の充電切れ!
停電状態につき充電が出来ない!
確か、車内にシュガーライターから充電出来る充電器があったはず!って探しましたが・・・。
「アー、女房の車か!・・・」
このような震災時、電池とか車から携帯電話に充電できる充電器が必需品であることを思い知らされました。
(但し、アンテナが立たなければ意味ありませんが・・)
編集後記
震災当時、被災地以外の停電にならなかった地域、停電になっても短時間で復旧した地域では、被災地で携帯電話の無線中継局が長期の停電によって機能を失い、携帯電話のアンテナが立たない状況になっていたことを想像できなかったと思います。
電線を支えていた電柱自体が津波で流失し断線した状態が、被災地沿岸の至る所で発生しており、電気の復旧の見通しが立たない状況は、生活必需品の家電機器が使えないだけでなく、唯一の通信網の携帯電話も機能不能に陥っていました。
スポンサードリンク
関連記事
-
-
3月14日の行動(4) 当たり前の生活
千厩(岩手県一関市)の宿の情報基地から、K次長と帰路に着く頃には暗くなり、実家経由にて帰るのですが、
-
-
3月13日の行動(1) 安否確認
大震災から3日目(日曜日)の朝になりました。 翌朝には実家でアンテナが立っていた唯一の庭先の場所は
-
-
支援物資(3) 衣食住の衣
支援物資を何にするか?を考える場合、“衣食住”に分けられる。 提供受けた側の経験談として、 “
-
-
3月16日の行動(4) 周知・認識不足
3/16(水)は、公私ともにターニングポイントになった日と前述した様に、非常に慌ただしく、精神的にも
-
-
3月12日の行動(5) 実家での出来事
工場に戻る際、山道のルートを変え、○○小学校付近の伯母(父の妹)の家に立ち寄りました。 伯母の
-
-
3月13日の行動(2) 軽自動車の借用
ガソリンが手に入らない状況で、いかに連絡ができるところまで移動し、本社や親戚に連絡をつけるか!?
-
-
3月11日の出来事(2) 帰せコール
「こんな状況で仕事は出来ない」「家族が心配だ」「大津波警報が発令した」等の意見があいつぎ、 “
-
-
3月16日の行動(3) 決意
本来の避難場所が避難場所にはならなかった状況は、私たちの予想を遙かに超える悲惨な状況でした。
-
-
私の家族(5) 女房の死亡確認
以前に、女房の死亡確認において、情けない失態をさらすことになることに触れましたが、恥を忍んで発信しま
-
-
3/17~31の活動(1) 協力体制
これからは日付毎ではなく、分野毎に発信していきます。 3/17(木)、この日から地元の運送業者
スポンサードリンク
- PREV
- 3月11日の出来事(3) 津波の映像と携帯不通
- NEXT
- 3月11日の出来事(5) 唯一の情報入手源