私の家族(1) 父の発見情報
当分の間、私の家族のことについて、お付き合いください。
私の家族は、父、母、妻(より子)、長男、長女の2世帯6人家族でした。
長男はJR貨物に就職し〇〇駅付近の社宅、長女は東京の専門学校生で、1人アパート暮らしでしたので、大震災時には4名が自宅に住んでいたことになり、大震災時に自宅にいなかった私含め3名が助かり、家族が半減してしまったことになります。
私が小学2年生の時に本家から分家し、父は養殖漁業を主として、3人の子供(私と妹2人)を育て上げ、母は父の手伝いをしながらの専業主婦でした。
子供の頃の暮らしは裕福とは言えず、私達兄妹は海の仕事を強制的に手伝いながらの生活で、そのような中、バカ息子が高専に入学したいと、家を離れての寮生活に、更に我が家を苦しい生活にさせるのでした。
なぜ、高専に入学したかったかと言うと、とにかく、過酷な労働条件でも裕福な生活が出来ない養殖漁業の跡継ぎにはなりたくない!
ということと、
高校入試の前の試し的な受験をしたら、間違って合格してしまい、あと受験勉強したくない!
との思いから、駄々をこねて入学させてもらった、という感じです。
父は、そのころ気仙沼水産高校(現気仙沼向洋高校)が家の直ぐそばに来るので、そこに入学してもらい、家業を継いでもらいたい思いはあったと思いますが、口には出さず、私と母に丸め込まれるのでした。
さて、3/17日、4トントラックで本格的に製品出荷を開始する当日、私の父が見つかった、と言う情報が入ってきたのです。
製品出荷が終わってからだと思いますが、初めに階上中学校の避難所に行ったところ、行政区長さんが立会い、父であることを確認したらしいとのことでした。
すぐに行方不明届けを出した、遺体安置所の階上小学校に出向いたら、その安置所は既に一杯になり、隣地区の面瀬小学校の体育館に、今後の遺体は収容されるとのこと。
ガソリンがないんだよな~、と思いながらも、面瀬小学校の受付教室に行ったのですが、まだ、公表、死亡確認は出来ないとのこと。
理由は、まだこの遺体安置所まで到達していない、又は、来ていても検死作業が終わっていない、との事でした・・・。
(後で分かったのですが、遺体数が多すぎて検死担当が不足状態とのことでした)
この日は、なんの成果もなく、工場に帰ることになったのです。
あ!成果はあったんです。
この日、地元の消防団の知り合いが、我が家らしい残骸を見つけ、その中から、(娘の)リックサック一杯にアルバムなどの写真を詰め込んで避難所に届けていたことが分かり、それを受けとることが出来たのです。
スポンサードリンク
関連記事
-
3月11日の出来事(5) 唯一の情報入手源
もう少し、通信不能の状況についてお付き合いください。 震災後、数日間の唯一の情報入手源はラジオ
-
生産再開へ(2) 本社出張
今になると、翌日(4/1)、どのようなルートでビジネスホテルから本社まで行ったのか記憶が曖昧ですが、
-
3/17~31の活動(5) 仮事務所の増殖
発電機が手に入り、組立できる製品の部材の出庫や組立作業を開始するとなると、製品物流以上のコンピュータ
-
3月11日の出来事(1) 会議中の食堂で
2011年3月11日 14時46分 私はじめ工場幹部は、食堂にて、月1回の定例である“課長会議”の開
-
3月12日の行動(3) 震災翌日、自宅へ・・・
自分の目で確かめるしかない! 車でどこまで行けるか分からなかったし、避難所の中学校から自宅まで
-
ご宿泊者に追想(コピー版)をプレゼント
このブログのベースとなっている、自費製作した『追想』のコピー版を、ある京都の中学の先生のご好意により
-
3月16日の行動(3) 決意
本来の避難場所が避難場所にはならなかった状況は、私たちの予想を遙かに超える悲惨な状況でした。
-
3月11日の出来事(3) 津波の映像と携帯不通
とにかく、連絡がつかない、状況がつかめない。 そのような中での私の行動は、駐車場から自分の車を
-
3月13日の行動(1) 安否確認
大震災から3日目(日曜日)の朝になりました。 翌朝には実家でアンテナが立っていた唯一の庭先の場所は
-
家族からのメッセージ(10) お元気ですか?-2
より子お姉ちゃん、膝の調子はどうですか? 無理をしていませんか? 愛犬チーズはおりこうさんにして
スポンサードリンク
- PREV
- 3/17~31の活動(5) 仮事務所の増殖
- NEXT
- 私の家族(2) 父の死亡確認