「 東日本大震災体験談 」 一覧
3月12日の行動(5) 実家での出来事
工場に戻る際、山道のルートを変え、○○小学校付近の伯母(父の妹)の家に立ち寄りました。 伯母の家はギリギリで津波の被害を免れてあり、簡潔に家族が見つからない旨を話し、暖かい飲み物をご馳走になって
3月12日の行動(4) 予想を遥かに超える津波
あるべき物が何もないんです。 そしてある訳がない物があるんです。 我が家の庭に、小型の漁船がひっくり返っているんです。 “おらいまで(津波が)きたら気仙沼は終わる”とよく言ってた
3月12日の行動(3) 震災翌日、自宅へ・・・
自分の目で確かめるしかない! 車でどこまで行けるか分からなかったし、避難所の中学校から自宅までは1.5Km位の距離なので、徒歩で向かうことにしました。 途中、近所で仕出し料理を営んでいる同
3月12日の行動(2) レスポンスの早さ
確か工場点検後、避難場所の玄関フロアに戻った時だったと思いますが、地元運送業者のD社の専務さんが心配で駆けつけていました。 D社の社長さんは地元企業の集まりの会の会長、そして私が副会長の関係で、
3月12日の行動(1) 工場内の確認
ほとんど眠ることはできず翌朝(土曜日)になりました。 まず、私が行った行動は、明るくなってきたので、工場内の損壊状態や製品の保管状態を確認し、本社に連絡がつながった際に、ある程度、正確な情報を報
3月11日の出来事(6) 避難場所での一夜
3月11日に戻ります。 暗くなり、小雪が舞うきびしい寒さ、断続的に余震が続く中、当工場の非難場所として、正面玄関を入ったロビーが自然的(すきま風が入るが直ぐに外に避難できる場所)に避難場所になり
3月11日の出来事(5) 唯一の情報入手源
もう少し、通信不能の状況についてお付き合いください。 震災後、数日間の唯一の情報入手源はラジオしかありませんでした。 その間、被災地とそれ以外の方々の心境は正反対だったと察します。
3月11日の出来事(4) 携帯電話と電気
時間が経つにつれ、周りが暗くなってきている中で、携帯電話がつながらない新たな問題に直面してきたのです。 携帯電話のアンテナが立たない状況になってきたのです。 電話をかける人が殺到し、携帯電話会
3月11日の出来事(3) 津波の映像と携帯不通
とにかく、連絡がつかない、状況がつかめない。 そのような中での私の行動は、駐車場から自分の車をトラックターミナルに移動し、エンジンをかけながら車のTVでNHKのニュースを見ることでした。
3月11日の出来事(2) 帰せコール
「こんな状況で仕事は出来ない」「家族が心配だ」「大津波警報が発令した」等の意見があいつぎ、 “帰せコール” になったのです。 確かに、大震災以降は停電したままですので仕事は出来る状況
3月11日の出来事(1) 会議中の食堂で
2011年3月11日 14時46分 私はじめ工場幹部は、食堂にて、月1回の定例である“課長会議”の開催中に大地震に遭遇しました。 食堂は工場の中では、長机と椅子しかない様なところですので、遭遇し