3月12日の行動(6) 震災翌日の夜
常務への連絡終了後は、仕事モードから家庭モードへの切替です。
子供たち、妹たちからのメールを受信していたので、滅多にしたことがない携帯でのメール入力、それでなくても入力が遅いのに、更に充電切れの状態につきクルクル充電器を回しながら・・・・。
やっとの思いで入力完了し、庭先のアンテナに立つところに立って送信すると、即座に返信メールを受信。
その場で返信入力していると、どんどんメールが受信され、メール返信入力が追いつかない・・・。
面倒くさくなって、娘(東京1人暮らしの専門学校生で一番心細かったと思う)にクルクル充電器を回しながら、なんとか通話にこぎ着け、泣きべそが伝わってくるも、一方的にこっちの状況を説明し、長男と(私の)妹連中に状況のメールを送信指示したりしました。
海外工場責任者のEさんからもメールが入り、工場から女房の実家までは、ルートが大丈夫だったことを伝えた記憶があります。
何度か、暖かいコタツでの入力、庭先でのメールの送受信を繰り返し、また、長~い、暗~い、夜に突入しました。
前夜と違い、“寒~い”は大幅に改善されています。
実家も停電中でしたが、堀コタツは昔ながらの練炭を使用、ストーブは反射式の電気を使用しないタイプでしたので、停電でも暖かい状態で夜を過ごすことが出来ました。
その夜、どういう会話したのか、どのような食事をしたかは、ほとんど記憶がありません。
但し、震災前まで、私は味わって食事するスタンスではなかったのですが、その日の家庭料理は、シンプルな割には、暖かくて、ものすごく美味しいかった記憶だけが残っています。
私もそうですが、実家の義姉、義母も、大震災の翌日ですし、完全に諦めていた訳ではありません。
別な避難所にいるかも知れない。
孤立したところに避難し、避難所に来られないのではないか?
そのような話題にもなったと記憶していますが、被災地をこの目で見てきた私と、見ていない義姉、義母とは、期待度合い、諦め度合い、の差異は明らかにあったと思います。
茶の間のコタツにそのまま就寝したのですが、なかなか寝付けず、色々なことを考えてしまうのですが、実家に来ての大収穫は、
停電復旧が早いと思われる内陸部に行けば携帯電話がつながる!
ということでした。
一関千厩町まで行けばつながるか!?
ガソリンをどうするか!?
そう言えば、着の身着のままの避難生活、生活物資(下着、食料等の確保)も必要!?
明日も避難所、自宅周辺を捜索し手がかりを掴まなければ!
頭の中が公私混同ぐるぐる状態になりながら、浅い眠りにつき、余震で目覚め、を繰り返すのでした。
スポンサードリンク
関連記事
-
-
3月12日の行動(3) 震災翌日、自宅へ・・・
自分の目で確かめるしかない! 車でどこまで行けるか分からなかったし、避難所の中学校から自宅まで
-
-
家族からのメッセージ(5) 家族のつながり
目を閉じれば そこには懐かしい故郷の景色、幼い頃の楽しかった思い出。 そして優しかった父、母、
-
-
私の家族(3) 父の死亡届
K次長と気仙沼市役所に到着した時は、既に暗くなってきて、当時、市役所も停電状態で、発電機による電気供
-
-
3月13日の行動(2) 軽自動車の借用
ガソリンが手に入らない状況で、いかに連絡ができるところまで移動し、本社や親戚に連絡をつけるか!?
-
-
3月11日の出来事(6) 避難場所での一夜
3月11日に戻ります。 暗くなり、小雪が舞うきびしい寒さ、断続的に余震が続く中、当工場の非難場
-
-
支援物資(6) タイミングと目的
“他の人だけでなく被災者も考えつかない、でも被災者には必要なもの” “提供するタイミングで支援
-
-
ご宿泊者に追想(コピー版)をプレゼント
このブログのベースとなっている、自費製作した『追想』のコピー版を、ある京都の中学の先生のご好意により
-
-
さいごに(2) 帰宅許可について
今回、奇跡的に工場社員の犠牲者はいませんでしたが、大震災・大津波警報発令の直後の帰宅許可は、工場責任
-
-
生産再開へ(3) 電気と水道の復旧
3月は年度末対応として、工場は製品在庫品の出荷、及び、可能な範囲での製品及びパーツの組立に注力してい
-
-
3月16日の行動(3) 決意
本来の避難場所が避難場所にはならなかった状況は、私たちの予想を遙かに超える悲惨な状況でした。
スポンサードリンク
- PREV
- 3月12日の行動(5) 実家での出来事
- NEXT
- 3月13日の行動(1) 安否確認