*

私の家族(震災から7年)

公開日: : 東日本大震災体験談, 私の家族

東日本大震災から7年が経過しました。

その経過の中で一番感じることは、残された家族・親族との絆が強まった、ということです。
辛い思いは私だけでなく、辛さを共有しているからこそ、震災直後からの生活再建、住宅再建には、それぞれの立場で協力してもらい、現在に至っています。

とは言っても、辛い・寂しい・後悔と言った感情が無くなった訳ではありません。
これは、第二の人生、喜怒哀楽から怒哀を捨て、『喜楽に生きる』と決めたとしても、一生、付きまとう感情だと思います。

それでも、残された家族・親族は、亡くなった妻、両親、愛犬の分まで、恥ずかしくない生き方をしようと努めてきました。

今回は、そのような中で、住宅再建までの経緯をご紹介したいと思います。

防災集団移転事業に参画

震災直後は、とにかく元の場所で元の生活に戻したい。という感情が非常に強かったことを覚えています。
家族が半減し、元の生活に戻ることはできないのに・・・。

家族を失ったことで、会社員(会社幹部)といて働く意味を失い、震災その年に会社を辞め脱サラしました。
とは言っても、子供たちに迷惑かける訳にはいかず、自分が生きていくための仕事を行う必要があり、様々な経緯を経て、自宅跡地に宿泊施設をオープンしました。

今考えれば、みなし仮設住宅での比較的安定した生活だったので、住宅再建の検討は後回しで、初めての個人事業主として、宿泊業の立ち上げ、軌道に乗せるのに精一杯だったような気がします。

宿泊業もなんとか軌道に乗ってきた、震災から2年経過した平成25年春ごろ、住宅跡地に隣接する土地に、防災集団移転事業を、隣の地区の方々4世帯で計画していることを知ったのです。

防災集団移転事業は5世帯以上でないと成立せず、その時は1世帯足りず、計画が停滞している状況に、私はというと、流出した自宅跡地に宿泊施設を整備し、どこに住宅再建するか悩んでいた時期でもあり、家族・親族と話し合い、その防災集団移転事業に参画することに決め、リーダーに申し入れしたところ、これで5世帯になり、計画が前進できると、喜んで事業への参画を認めてもらいました。

その防災集団移転事業には大学の支援グループの先生や学生、建築士のサポートを受けての事業推進でした。

協議会を設立し、協議会内での定期打ち合わせ、行政との打ち合わせを繰り返しながら、平成25年暮れには造成計画図完成までたどり着きました。

しかし、ここからは、同じような防災集団移転事業は気仙沼市だけでも47団地が計画され造成が行われていきますが、とにかく、行政及び造成工事会社のマンパワー不足が露呈し、計画が度々遅れ、実際に造成工事が終わり、宅地の引き渡し、住宅を建てられる状況になったのが、平成27年の夏、震災から4年以上経過した時点でした。

造成中の防災集団移転事業

とはいえ、行政の最大限の支援(生活再建支援金や利子補給制度、行政による造成工事など)を受けての再建なので、仕方ない面があります。
震災から7年経過しても、市街地ではかさ上げ工事が未だに終わらず、土地の引き渡しを待っている方々がいることを考えれば文句も言えません。

住宅の再建

造成工事が遅れていても、住宅建築(再建)の方は順調に進み、設計士との契約、複数の工務店による相見積もりによる工務店の決定など、対応可能なところは平行して進めていました。

平成27年9月には、工務店との工事請負契約を締結し、その年の12月から着工し、多少遅れましたが、平成28年6月には完成し、引き渡しされました。

完成した再建住宅

 

建築の設計の段階では仙台に嫁いだ妹にも参画してもらい、私だけではなく、家族。親族が集い、快適な空間づくりに努めました。
私一人なら小さな家で良かったのですが、震災前から我が家は、盆正月には妹家族が帰郷し、息子、娘の友達たちも昼夜問わず集まって、賑やかに過ごすのが当たり前でしたので、その環境づくりが必須条件だったのです。

建築の過程においては、一部、木製の外壁を使用する際に、家族・親族全員の思いがこもった家づくり、それと、自分達で作業することでコストダウンになるとの提案を受けて、ある時期に家族・親族が集合し、みんなで外壁の塗装を行いました。
みんなが集まるための交通費を考えると、コストダウンになったかどうか疑問(苦笑)でしたが、みんなが協力しての再建住宅ということで、楽しい思い出になりました。

家族・親族で行った外壁の塗装作業

再建住宅での生活

平成28年7月から再建した住宅での生活が始まりました。

みなし仮設住宅の時と変わらず、普段は相変わらず一人生活でしたが、大きな違いは、職場(宿泊施設)から数十歩の位置になり、以前の顔見知りの行政区に戻ったという安心感がありました。

そして、盆正月には、家族・親族がそろって帰郷し、一時的に大賑わい♪

年越しに若者達が集結

正直、住宅再建し、やっと普通の生活に戻った途端、気が抜けた感じでした。

震災以降、普通の生活を取り戻すことを目標にやってきたのですから、ゴールしての達成感、充実感があるかと思いきや、

『やっと終わった。これで良かったのだろうか?これからどうしようか?』

住宅再建しても、両親、妻が戻ってくることはありません。
天国で見守ってくれているからこそ、ここまで出来たと思うことが多々あります。

これからが、残された家族の新たな人生のステージに進みます。

スポンサードリンク

関連記事

no image

3月13日の行動(1) 安否確認

大震災から3日目(日曜日)の朝になりました。 翌朝には実家でアンテナが立っていた唯一の庭先の場所は

記事を読む

no image

家族からのメッセージ(10) お元気ですか?-2

より子お姉ちゃん、膝の調子はどうですか? 無理をしていませんか? 愛犬チーズはおりこうさんにして

記事を読む

3月15日の行動(1) 車の発見

翌日(15火)の朝になり、Y氏と何とか実家で合流し、実家の2階の部屋にコタツ、ストーブ等を準備しても

記事を読む

no image

生産再開へ(7) 体制の変化

プロジェクト・分科会の体制・メンバーは生産再開・災害復旧の内外的な変動に伴い、刻々と変化していきまし

記事を読む

no image

家族からのメッセージ(4) 私のこころ-2

震災当時は、まだ19歳でした。 5月に20歳の誕生日を迎えた時、初めて誕生日なんていらないと思いま

記事を読む

no image

3月11日の出来事(6) 避難場所での一夜

3月11日に戻ります。 暗くなり、小雪が舞うきびしい寒さ、断続的に余震が続く中、当工場の非難場

記事を読む

no image

3月13日の行動(2) 軽自動車の借用

ガソリンが手に入らない状況で、いかに連絡ができるところまで移動し、本社や親戚に連絡をつけるか!?

記事を読む

no image

3/17~31の活動(4) システム対応

大震災以前は、関東の事業所に設置してある、コンピュータシステム(販売管理及び生産管理システム)に、工

記事を読む

no image

震災から4年になるね

じいちゃん(親父)、ばあちゃん(お袋)、ママ(女房)、そっちはどうですか? ケンカしないで、安らか

記事を読む

no image

私の家族(8) 母と次女

死亡確認した当日(4/3)に市役所に死亡届を提出し、4/15に女房と同じ千厩での火葬と決まりました。

記事を読む

スポンサードリンク

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

スポンサードリンク

no image
時間をかけてはいけない罹災証明書

元旦に発生した能登半島地震の被災者のために、震災を体験し、被災者(自宅

no image
時間が解決してくれる(再建)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に、東日本大震災時の状

no image
時間でしか解決しないことがある(避難・仮設住宅)

元旦に発生した能登半島地震の災害ニュースを見る度に心が痛みますが、13

no image
時間でしか解決しないことがある(こころ)

東日本大震災から13年が経とうとしています。 震災から5年後には

日常と節目と語り部

東日本大震災から10年という節目を迎えるにあたり、前回に引き続き、私が

→もっと見る

PAGE TOP ↑