3/17~31の活動(3) 情報通信
公開日:
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最終更新日:2016/03/11
3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
17日からの本格的な4トントラックでの製品出荷を開始すると、本社側との頻繁な情報通信のやりとりが必要になってきます。
それは、何の製品を何台、いつのトラックに乗せて出荷してもらいたい、という本社側からの指示と、その指示を受けての結果報告を、毎日の様に行わなければならないのです。
更にはトラック運行スケジュールのやりとりや、災害復旧・被災者支援に関するやりとりも行わなければならず、停電の中での情報通信の工面は本当に苦労しました。
女房の実家を情報中継基地にしたところまでお話しましたが、このころ、内陸部からコツコツと停電復旧している状況から、携帯電話の通話、メールの送受信が出来る場所も、沿岸部に近づいてきていたのです。
初めに工場周辺でつながった場所は、相変わらず電波は弱かったですが、〇〇地区の高台でした。
会社からは約6km程度の距離だったので、女房の実家まで行く(20km)ことを考えれば断然の進歩です。
但し、私にとっては、実家に(普通の生活をしに)行く口実が減ってしまったことがは残念でしたが・・・。
そのころは、出荷業務が終わる夕方頃に、K次長とその場所に車で移動し、データ通信及びメール、更には携帯電話での連絡を行うことが日課でした。
通信状態が良くないので、容量の大きいデータのやりとりが、なかなかうまくいかなかった記憶があります。
次につながった場所は、なんと、工場敷地内の裏側の加工場の1箇所をK次長が探し出しましたが、電波が不安定だったために、K次長は毎日夜中まで掛かり、暗い、寒い中のメールの送受信を行い、時には出荷データを避難宅に持ち帰って対応するなど、大変な苦労をかけました。
その後、対策本部内で携帯電話及び携帯電話の電波を活用したパソコンでのメール送受信が可能になったのですが、その頃からは携帯電話会社A社の復旧が勝り、A社を活用したパソコンでのメールのやりとりに変わっていきました。
最初の頃は、これでも良かったのですが、情報通信に関しては奥が深く、製品出荷にしろ、その後の組立再開に伴う部材の入出庫などの物流が多くなることは、その物流の動きを、関東の事業所にあるコンピュータシステムにアクセスし、データを更新していかないと、生産管理及び経営面に大変な支障をきたしてしまうのです。
しかし、メールレベルの通信網で出来る訳がなく、どのように対応していくか!?
重要課題が浮上してきたのです。
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