3/17~31の活動(2) 対策本部
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最終更新日:2016/03/11
3月17~31の活動, 東日本大震災体験談
工場2階の応接室、会議室は対策本部として、煩雑な部屋に変化していきました。
白板を4つ準備し、連絡事項や指示事項、製品出荷スケジュールを見える化し、また、翌日の部材出庫、組立や出荷の協力予定者、車の乗り合わせ等にも活用しました。
とにかく、メールや電話での情報共有ツールがない、協力社員も日々変わる状況から、対策本部の白板、ドア、壁などをフル活用し、協力社員への情報共有手段とするしかなかったのです。
出入口のドアには、社員の安否リストを掲示し、社員、その家族の安否、家屋の損壊状況、ライフラインの復旧状況、携帯の連絡先を掲示し、本人や社員間で分かる人の情報を赤ペンで更新してもらい、データ更新しては、また最新リストを貼り出し、赤ペンでの更新を繰り返していきました。
当初は安否確認が主目的でしたが、時間が経つにつれて、社員の安否の見通しがたってくると、次は年度末の対応や、ライフライン復旧を前提とした、生産再開に向けて、会社に出勤出来るか否かの確認になっていきました。
◎ 自力で通勤可
◯ 近場社員で足が確保(ガソリン、乗り合わせ等)できれば通勤可
△ 遠距離社員につき、当面、通勤不可
❏ 避難所生活などにより時間等の制約があっての通勤可
✕ 出勤不可
みたいな感じで識別していったのです。
余震が続く中、緊急事態をも想定し、その部屋にはあらゆる物が入ってきました。
ラジオ、ロウソク、電池、懐中電灯、ストーブ、ポット、コーヒー、紙コップ、メモ紙、ガムテープ、マジック、寝具・寝袋などなど・・・・。
ほとんどがアナログ的な物です。
電気がない頃は、パソコン、プリンター、テレビなど高機能な物はほとんど役立たずでした。
奥側の会議室は夕方からは、M氏家族と私の避難生活者の憩いの場となります。
アコーディオンカーテンを閉め、部屋を小さくして暖めやすくし、晩酌、夕食、朝食の場になるのです。
本社などから支援スタッフが来た場合には、その部屋が宿泊場所にもなりました。
M氏家族との避難生活は、私にとって非常に助かりました。
朝晩のメシの心配しなくても良いのです。
また、お母さんも呑む口だったので、一緒に晩酌して、被災者同士、相談し合ったりして、これから、いかに前向きに生きていくか!?
など、気持ちが少しずつ変化するきっかけにもなりました。
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