3月15日の行動(5) Y氏の体験談
14日の夕方から15日にかけて、本社から災害支援として駆けつけてくれた、Y氏の体験談を紹介します。
14日夕方・・・
工場長、K次長、Yの3名で千厩に向かいました。
1件目の旅館は断られ、2件目の旅館で素泊まりでしたが宿泊する事ができました。
食事無し、風呂無しでしたが、電気が通っており、旅館の自動販売機で当時貴重だった水を大量購入した事を覚えています。
気がつけば、食料は全て工場に支援物資と置いてきており、たまたまカバンに入っていたリンゴ1個が当日の食事でした。
旅館では携帯電話の通信を活用し、ネットやメール送受信が出来ましたので、本社や(関東の)事業所との情報のやり取りを行いました。
どんなやり取りをしたかご紹介しますと、
①更なる支援物資要請(お米、紙おむつ、ミルク、懐中電灯、ガソリンなど)
②安否情報の提供
③本社から工場までの道路事情報告
④システムの受注入力、製品出荷の対応確認
⑤携帯電話の利用状況報告
⑥第2陣支援部隊の方への情報提供
⑦緊急車輌申請の対応
などです。
夜は頻繁に襲ってくる余震と、家に残してきた家族の事が気になって、なかなか寝れませんでした。
翌朝、中継基地を千厩から工場長の奥様の実家に変更との要請があるのですが、この時点で車のガソリンは半分以下・・・
食料、ガソリン、従業員の方の安否、不安だらけの移動です。
工場長からメール受信した住所にてナビを頼りに移動中、ガソリンスタンドに車の列が!ガソリンが入れられる!と即、その列に加わったところで、工場長から電話があり、事情を話ししたら、本当にガソリン売っているのか確認した方が良いと指示があり、車から下りてガソリンスタンドまで行くと、
販売しているのは灯油だけ・・・。
ムダな時間とガソリンを消費し、がっかりしながら、工場長の奥様の実家に向かうのでした。
何とか工場長の奥様の実家で合流し、2階に情報基地を設置するのもつかの間、工場長はあと(留守番)宜しく!みたいな感じでお姉さん、妹さんなどで気仙沼に向かい、私と初対面の工場長の奥様のお母さんの二人きりになったのです。
工場長の奥様の実家は電気・水道が普通に使え、奥様のお母さんに温かい食事をご馳走になりました。
前日にリンゴ1個しか口にしていない私にとって一生忘れることはない食事になったのです。
心身ともに疲れていた私ですが、工場長のお母さんにエネルギーを充填してもらい工場へ戻ることになるのでした。
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