3月13日の行動(2) 軽自動車の借用
公開日:
:
最終更新日:2016/03/11
3月13,14日の行動, 東日本大震災体験談
ガソリンが手に入らない状況で、いかに連絡ができるところまで移動し、本社や親戚に連絡をつけるか!?
を考えていましたが、
工場に戻って目についたのが駐車場にあるTさんの軽自動車でした。
(震災当日、T夫婦は旦那の車1台で退社したので、Tさんの車は工場に残されていました)
避難所でTさんに会い、
旦那が自宅を見に行った。
T家の2階部分が流出状態で見つかった。
という話を聞き、私も自宅に途中まで車で向かい、T氏と会い、2階部分を教えてもらいましたが、人が行ける様な場所、状況ではありませんでした。
何の手がかりもなく、避難所に戻り、Tさんとのやりとり、
*工場に駐車している軽自動車にはどの位のガソリンが入っている?
*半分以上は入っていると思います。
*当面の間、社用車として貸してもらいたい!
という、今考えれば、半強制的にカギを貸してもらい、ガソリンが入っている燃費の良い軽自動車を、当面の社用車、兼、発電機が到着するまでは、シガーライターにインバーターを接続し、携帯電話やパソコンの電源として借用することになるのでした。
結果的に3ヶ月間も・・・・。
K次長に、翌日(14日)に、
避難物資の買い出しを兼ね、携帯がつながるところまで行ってみよう!
と約束しました。
次長は会社に近い、奥さんの実家を避難場所として、工場と行き来していました。
私が女房の実家に外泊したり、避難所や自宅跡への外出をしている間に、工場の避難所も少しずつ変化して行きました。
すぐ外へ避難できる所は良いのですが、玄関フロアは寒いのです。
M氏家族は12日の夜、玄関に作った応急コタツで寝たらしいですが、翌朝、玄関隙間風攻撃に耐え切れず、2階の応接室を避難場所に変更していました。
あの地震を耐えた工場なんだから2階でも大丈夫だろう!
製品に使う断熱材やダンボールシートを活用し、床からの寒気を防ぎ、その上に座卓を置き、毛布等を掛け布団代わりにして応急コタツを作り、避難3日目の夜を迎えるのでした。
2日間、ほとんど寝られず、今夜こそは!
と、会社が取引業者さんなどから、お歳暮として頂いた、 “アルコール入り睡眠導入剤” を頂戴し、寝ようとするのですが、なかなか寝付けず、睡眠不足が続くのでした。
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