3月11日の出来事(6) 避難場所での一夜
3月11日に戻ります。
暗くなり、小雪が舞うきびしい寒さ、断続的に余震が続く中、当工場の非難場所として、正面玄関を入ったロビーが自然的(すきま風が入るが直ぐに外に避難できる場所)に避難場所になり、食堂の椅子や机、石油ストーブ、毛布等を準備し、一夜を過ごすことになりました。
社員で残ったのは10名いなかったと思います。
近所の方々が場内の車の中や外で非難している方もいて、その方々もロビーに案内しました。
それでも若い方は車内で、お年寄りの方々がロビーに非難したと記憶しています。
暗くなる前に、災害時の非常食をロビー付近に準備しており、女性社員が手際よく、暖かいコーヒーや非常食の炊き出しを行い非難している方に提供し、長~い、暗~い、寒~い、一夜が始まるのでした。
後で聞いた話ですが、初日、2日目あたりの一夜の非難状況は避難場所によって雲泥の差だったらしいです。
当工場の避難場所はすきま風は入るも、暖をとることができ、食事も不自由なく取ることができたのです。
陸の孤島化(海水が引かない)した避難場所においては、本来の避難場所であっても、避難用物資が津波で流出したりで、津波に遭遇し紙一重で生きのびても、津波で濡れた衣料を着替えることも出来ず、食事もままならず、せっかく地震、津波で生きのびても、高齢の方々の中には、あの厳寒の中、体力・気力が追従できず、その後に避難場所で亡くなった方も多かったと聞きました。
工場の中で一夜を過ごした社員において、避難所として唯一の欠陥は家族の安否の確認が出来なかったことでした。
そのような中、社員のM氏家族(母と犬1匹)が、無事が確認できた家族として非難していました。
M氏が母を捜しに山道経由で自宅付近まで行き、偶然的にもその日に犬と一緒に避難した母を見つけ、工場に避難してきたのでした。
その当時、まさか私が5月の連休まで、M氏家族においては7月上旬までという長い期間、当工場での避難生活が続くとは夢にも思わなかったことでした。
スポンサードリンク
関連記事
-
-
3月12日の行動(5) 実家での出来事
工場に戻る際、山道のルートを変え、○○小学校付近の伯母(父の妹)の家に立ち寄りました。 伯母の
-
-
私の家族(9) 葬儀
4/15(金)に最後になった母の火葬が終わり、葬儀屋さんに3人の遺骨が仮安置して頂いた頃、工場はマイ
-
-
支援物資(2) 震災直後は・・・
今回の大震災の被災者は、社内だけでなく、国内、国外等から沢山の支援を頂き、本当に言葉では表すことが出
-
-
3月16日の行動(3) 決意
本来の避難場所が避難場所にはならなかった状況は、私たちの予想を遙かに超える悲惨な状況でした。
-
-
さいごに(1) 雲の遥か
長い間、お付き合い頂きましたが、最終回が近づいてきました。 私は大震災前まで歌を聴いて泣けるこ
-
-
3月15日の行動(5) Y氏の体験談
14日の夕方から15日にかけて、本社から災害支援として駆けつけてくれた、Y氏の体験談を紹介します。
-
-
生産再開へ(5) プロジェクト体制
4/4(月)、大震災以降、初めて工場全社員を対象とした出社がスタートしました。 まず、全体の朝
-
-
ご宿泊者に追想(コピー版)をプレゼント
このブログのベースとなっている、自費製作した『追想』のコピー版を、ある京都の中学の先生のご好意により
-
-
さいごに(2) 帰宅許可について
今回、奇跡的に工場社員の犠牲者はいませんでしたが、大震災・大津波警報発令の直後の帰宅許可は、工場責任
-
-
支援物資(5) 初動判断
これまでは、ボランティア的な支援物資に関して考察してきましたが、工場再開、災害復旧のために必要不可欠
スポンサードリンク
- PREV
- 3月11日の出来事(5) 唯一の情報入手源
- NEXT
- 3月12日の行動(1) 工場内の確認
